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◆第14回 稲葉真弓賞(三稜会懸賞論文)選考結果

◇テーマ 『交流』
◇応募総数 483点

◇入賞作 8点
 <最優秀賞> 1点
  愛知黎明高校  2年 加藤 葵衣  「交流が生み出す社会」

 <優秀賞>  2点
  清林館高校    2年 岡部 桜子  「Love you」
  津島北高校    2年 河合 美佳  「時代とともに」

 <佳作>   3点
  津島高校     2年 安保 心音  「『相手』の存在」
  五条高校     2年 竹内 美咲  「交流のないIFの世界」
  津島高校     2年 川瀬 真央  「多様な国際交流」
※学年は応募時点となっております。
多数のご応募ありがとうございました。



◆入賞作品

最優秀賞「交流が生み出す社会」 愛知黎明高校2年 加藤 葵衣

 私たちにとって「交流」と言う言葉はとても身近でよく聞く言葉だと思う。「国際交流」「地域交流」などといった言葉を聞いたことがある人も多いのではないか。しかし、現在、技術の進歩などにより、昔に比べ、「交流」の機会が減っているように思う。例えば、他国の文化や習慣を知るにも、スマートフォンが一台あれば、検索して、映像や音でリアルに知ることが出来るから、実際に人と交流したり体験したりしなくても事が足りる。旅行先で道が分からなくても、地図アプリがあれば困らない。人と交流しなくても、スマートフォンがほぼ解決してくれる。そんな人と交流しなくても事が足りる時代であっても、人との交流の大切さを考えさせられた出来事があった。その出来事を通して、交流によって得られるものがたくさんあること、交流とはなくてはならない大切なものであることを理解することが出来た。
 私は看護学生として、看護師という夢に向かって日々多くのことを学んでいる。二〇二三年の秋、四週間の病院実習へ行った。そして、実際に患者さんを受け持たせていただくという、とても貴重な経験をした。一年生の時は、感染症の影響で病院へ実習に行くことが出来なかったため、初めての患者さんと関わる経験だった。そこで私は、看護についての技術はもちろんのこと、交流とは何か、交流をする上で大切にすべきことは何かを知ることが出来た。知れたと同時に、もっと早く「交流」の大切さに気付きたかったと感じた。感染症が与えた交流の減少の代償は、とても大きなものだったとあらためて思った。
 受け持たせていただいた患者さんは、八〇代の高齢の方で、一七歳の私とは約七〇年もの年齢の差があった。高齢の方と深く関わることは、今まであまりなかったため、初めは、どのように接したら良いか分からず、多くの不安と緊張で一杯だった。けれど、高齢者の方はさまざまな経験をし、生きていた年数が長い分、私が知らないことをたくさん知っている。患者さんと関わるにつれ、だんだん患者さんの話を聞くこと、患者さんと話をすることが楽しみへと変わっていった。その一方で、年代の違いから、私たちとは異なった考え方を持っていることもある。そのような場合には、自分の考えを中心に考えるのではなく、その人の話を傾聴し、その人の気持ちに共感するように心掛けることが関わる上で大切であると思う。
 また、今回の経験を通して、新たに気付いたことがある。それは、どんなに努力をしても人の本当の気持ちを知ることは出来ないかもしれない。けれど、そんな時でも、「その人にとって必要なことは何か」を考え、その人のことを知ろうとする気持ちを持つことが出来れば、人との交流は豊かなものになるということだ。
 また、交流に時代の壁や言語の壁はないと思った。たとえ年齢がどんなに離れていても、言葉が分からなくても、自分が相手のことを「知りたい」、「理解したい」と思う気持ちを持つことが、誰とでも交流を深めるための鍵になると思う。また、生きてきた時代が違うため、お互いが自分の文化や習慣を固定観念としてとらえないことも、交流をする上で必要なことだと思う。自分の考えが全てではない。だから、さまざまな人と交流をし、多くの考えを取り入れ、自分の固定観念を壊していくことが必要である。他の人の考えを自分の中に取り入れるなら、人は進化していくことが出来ると思う。
 世界には数え切れないほど多くの人がいて、それぞれが楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、辛いことなど、さまざまな経験を繰り返し、日々成長している。だから、誰一人として同じ価値観を持っている人はいないし、人の数だけ価値観があると思う。そんな世の中で生きていくためには、自分の考えを持つことが必要だと感じる。だが、それを他の人に押し付けるのは間違っている。自分のことも、他の人のことも素直に受け入れ、認めることが私たちには求められていると感じる。
 私の経験は「交流」のほんの一部に過ぎないと思う。私はこれから先、何十年も生きていく中で、さまざまな人と出会い、交流するだろう。そんな時には、交流をする上で何を大切にすべきか、交流によって得られるものは何かなど、交流のあり方をよく考えたいと感じた。そして、自分の気持ちを積極的に伝えていきたい。
 「交流」は人が生きていく上で必要不可欠なもの、なくてはならないものであると思う。交流をするから、自分一人では気付けない新しい考え方や価値観に出会うことが出来る。交流があるから視野が広がり、自分自身も成長することが出来るのではないか。しかし、これからもっと技術は進歩し、時代は変化する。このままだと、人と人との交流は減ってしまうと思う。だからこそ、多くの人に「交流」の大切さを知ってほしい。一人一人が交流とは何か、気を付けるべきことは何かを考えることが、これから先必要になるだろう。



優秀賞 「Love you」 清林館高校2年 岡部 桜子

 この短くて小さな英文が持つ意味とはどのようなものでしょうか。この言葉は、「愛する」という意味の「Love」、それから「あなたを」という意味の「you」、つまり日本語に訳すと「あなたを愛している」と言う意味になります。とてもシンプルでありながらも、「愛している」と言う尊い感情を伝えるための、なんとも素敵な言葉だと思います。そしてそれは決して現在だけではなく、古くからも人々にとっては欠かせない言葉だったのではないでしょうか。その証に、訳さずとも、老若男女を問わないほとんどの日本人がこの言葉の意味を理解できると思います。
 さて、私がこの言葉を、この作文のタイトルに選んだ理由は二つあります。まずは「交流」と言うテーマを聞いて一番に浮かんだ言葉であること。それから私自身の、カナダでの留学生活の中で、最も印象に残った言葉でもあるからです。恋人や家族に愛を伝える時にはもちろん、何か贈り物を送るとき、送られるとき、電話を切るとき。そして寝る前にも、さらには手紙の締めくくりにまで… 。たくさんの場面で「Love you 」という言葉を耳にしてきました。日本では「愛しているよ」だなんて、特別な時にしか恥ずかしくて言えないと言う人が多いのではないでしょうか。恋人ならまだしも、家族間なんて簡単に言えたものではありません。少なくとも、私はそう思っています。だからこそ、カナダの人々が日常的に愛を伝えているということに、初めて気がついたとき、私は衝撃を受けました。同時に、なんだか温かい気持ちにもなりました。そして、普段感じていても口にはなかなか出せないようなその言葉を、互いに当たり前のように伝え合っているカナダの人々を、少し羨ましく感じました。しかし、当時の私はそれをただの文化の違いとしか捉えていなかったのです。
 ある日、私が部屋で学校の課題に取り組んでいるとき、廊下からホストマザーが声を荒らげているのが聞こえました。どうやらホストマザーが大きな声で怒っていた相手は電話越しにいるホストシスター(ホストマザーの娘)のクリスティーナのようです。内容は詳しく分かりませんが、ホストマザーに「伝えた」と言うクリスティーナの主張と、それを「聞いていない」というホストマザーの主張がぶつかっていたようでした。母娘のけんかはどの国も大して変わらないなあと私が感じている間に、ホストマザーがため息交じりに「Okay,Bye,Love you」と言って、その電話は切られました。まだ怒りが完全に鎮火しているとは思えないのに、それでもいつものごとく「Love you」と言ったことに対して、不思議に思った。私はその日の夕食時に、「どうしてここの人は電話を切るときに『Love you』っていうの?」とホストマザーに尋ねました。同時に日本ではそのような文化がないことも話しました。すると、ホストマザーは「だって、電話をしているということはその場に一緒にいないってことでしょう。極端な話をしてしまえば、万が一、相手がその電話の直後に事故にあってしまったとして、最後の会話が『Love you』以外の何かだったら、絶対に後悔するもの。電話だけじゃないわ、寝る前も、別れ際も、明日会うと分かっていても、必ず伝えたいのよ。」と説明してくれました。私はそれまでの自分の浅い考えとは違い、そんな深い意味があったのかと驚きました。もちろん、気軽に感情を伝え合う文化やその環境の中で育った彼らだからこその習慣というのもあるのでしょう。それでも、やはりそのような気持ちが込められているのを知ってからの「Love you」という言葉は、それまでよりも更に素敵で、そして温かく聞こえました。
 それからというもの、私自身も仲の良いカナダ人の友達との別れ際に「Love you」と言ってみたり、ホストマザーへのクリスマスメッセージカードには「Love you」と付け加えてみたり、自然と自分なりの解釈でその言葉を使うようになりました。自然に使うようになった、というよりかは、ホストマザーの話を聞いて、「自分も使ってみたい!」と心の中で感じたことが行動に出たのかもしれません。彼らに「Love you」と伝えると、「Love you too.(私もあなたを愛しているよ)」や、「love you more.(私の方があなたを愛しているよ)」といった言葉が返ってくるのです。すると、とても嬉しくて、心が満たされた気持ちになります。どんなに着飾った言葉や、おしゃれで小難しい言葉よりも、「Love you」のたった一言で、心の距離が縮まり、お互いに通じあったように感じるのです。
 今になって、あのあたたかい気持ちこそが、本来の「交流」と呼ぶべきものではないかと私は考えます。あなたの隣に、それを伝えたい大切な人がいるのなら、恥ずかしくても、ぜひ一度伝えてみることを強くおすすめします。それは冒頭に書いたような私たち日本人なりの習慣や考え方というものがある手前、カナダ人のように、日常的かつストレートに伝えることが簡単だとも思いません。しかし、自分なりの言葉で、自分なりのタイミングで、さりげなく、でも確実に、相手は自分にとって大切な存在であることを伝えてみてはいかがでしょうか。きっと、恥ずかしくても、なんだかあたたかい気持ちになると思います。ひとりぼっちの世界なら言葉などあっても意味をなしません。言葉とは、人と人が交わって関わる、つまり「交流」するために発展してきました。「Love you」、この短くて、小さな英文がもつ意味とは、字面からは計り知れない、とても大きな「愛」という深いものだと私は考えます。



優秀賞 「時代とともに」 津島北高校2年 河合 美佳

 交流とは、異なる地域や組織の間で人や物事が互いに行き来し、付き合うことを指す。このことを踏まえた上で、今の私たちの交流はどうだろうか。と考えた。生き生きしているのは文字だけが載せられた電波であったり、、画面に映る電子でできた人の顔だったりする。これらは人でも物事でもない。けれど、それもまた交流という形のひとつだ。コロナ禍で交流の定義は大きく変化していった。その中で私たちは改めて交流の中で「共有」を大切にすることが必要である。
 まず、物事の定義が変わることは悪ではない。今までの時代とともに定義や意味が変わっていった言葉は数多くある。ただ、交流の意味や定義が変わっても大切にすべき点に関しては変わらないだろう。厚生労働省が公表した統計アンケートでは、コロナ禍で交流の機会が減ったと思う。と回答した人は約七割であった。彼らが言う交流はあくまで対面。言わば、直接会って話す交流であり、逆にLINEなどのメール機能やZOOMなどの「リモート」と呼ばれる遠隔での交流がかなり増加したと感じられる。リモートワーク、リモート。授業。私の父もかつてリモートワークをしていた。世間ではリモートを推奨しており、遠隔で各々仕事をするため感染のリスクも少ない。ただ、大きな問題点があった。それはコミュニケーションがうまく図れないということだ。仕事をこなすだけが大切ではなく、人間関係、プライベートの悩み等を共有し、それを一緒に悩み、解決する。そういった信頼関係を築け上げるための当たり前のことがリモートではできない。と父は嘆いていた。ただ仕事の内容を淡々と話すだけの一方的な投げかけは交流とは言えない。部下、上司、同僚。さまざまな立場がある会社で円滑に仕事をする、仕事を任せ、任せられる、困ったときに協力する。そんな信頼関係を築くためには、やはりコミュニケーション、交流が不可欠だが、リモートワークではそれができず、一方的になってしまった。そのため、プロジェクトがうまく進まないこともあったという。
 私もリモート授業を経験した一人だ。言わずもがな、その場で質問できない。友達と何気ない話もできない。それ以前に友達を作ることさえ困難である。学校が再開し、円滑に学校生活を続けられたかと言われたら私は「いいえ」とはっきり答える。復習に追われ、早急に進む授業と一度離れてしまった人間関係を再構築するのに精一杯だった。ここでも問題になってくるのは、やはりどちらかが一方的である。という点だ。言葉が行き来する交流が減ってしまい、身体的にも精神的にも影響しているという声も多い。リモートでも、一方的な言葉では勉強や仕事でやる気が左右され、孤独感を与えてしまう。
 この問題を解決するためには、お互いが対話をすることである。それは直接的でも間接的でも変わらない。なぜなら交流の定義は人や物事、言葉や思いが行き来する事だからだ。なぜ交流するか、と、元をたどればお互いに情報を共有し合い、人とつながるためである。交流がもたらす効果はストレスの軽減、相互理解、信頼関係の構築や生産性の向上などがある。以上のように最初に述べたコロナ禍で大きく変化した交流で大切にすべき点は「共」に「有」と書く「共有」だ。
 一方的な言葉は交流ではない。行き来をしてないからである。しかし、行き来をする中で間接的な交流の一つに文字がある。近年、メールのトラブルが後を絶たない。共有をしたとしても、相手の意図をくみ取るという努力をすべきだ。言葉そのままを感じ取るのではなく、ひとつひとつの意図を考えて、上手に対話していく必要がある。それを踏まえると確かに直接会って話したほうがいいのは間違いないだろう。だが、コロナ禍が変えた人とのつながり。時代が絶えず変わっていくように、私たちもそれに順応し、変わっていかなければならない。疑問に思えば、随時相手に問いかけ、再認識するのも一種の共有である。それを怠れば双方の間に誤解が生まれる。認識がずれ、共有しているようでしていない図ができてしまう。相手の意図を汲み取るため確認をするのもまた共有だ。しかし、直接会って何気ない会話の中でも誤解を生んでしまう。これも同様に汲み取るための共有がカギとなる。
 コロナで大きく変化した交流。直接会って話すだけでなく、間接的に交流する機会が増えた。大切なのは、やはり共有することであり、それは直接的でも間接的でも変わらない。私たちは円滑にコミュニケーションをとり、お互いを知っていく。交流の定義は人や物事が互いに行き来することだ。時代とともに変化している交流に適応できるかできないかは私たちの「共有」にかかっている。きちんと対話をし、言葉や想いを確かに交わし合ってこそ、はじめて交流といえるのではないだろうか。時代とともに交流が変わっていったように、私たちも変わっていく。今の交流で大切なのはお互いの、思いを確実に「共有」することである。



佳作 「『相手』の存在」 津島高校2年 安保 心音

 交流とは、系統・組織・地域などを異にする人々や文物が互いに行き来すること。辞書を引くとこう書いてある。私も、辞書で定義された意味で交流という言葉を使っている。他国との関わりによって新たな考えを手に入れられた。文化と科学技術の交流が、新しい何かを生んだ等、交流とはいつも私たちの生活を豊かに、そして彩りを加えてくれるものだ。そんな交流について考えていきたい。
 私が考える交流を表すものの一つの例として、会話が挙げられる。学校の授業のペア活動、会社や組織での会議の時、あるいは国と国との対談の時。このどれもがおそらく、言葉を通じて行われる交流だろう。性格や考え方が全く違うもの同士が、言葉を使ってやりとりを行うこの「会話」は明確に交流を表す。
 私が会話という交流が大切だと気づいたのは、ちょうど新型コロナウイルスが流行しだしてから少し経過した頃だ。中学校が三ヶ月ほど休校になった。最初の一ヶ月は、何も不自由なく生活を送っていたが、二ヶ月ほど経過すると、強制的に友達に会えない期間が苦痛に感じられてきた。このような事例は珍しいことではない。日本赤十字社が実施した、コロナ禍で生じた若者の気持ちの変化の調査によると、感染症が流行してから二年で孤独を感じる人の割合が高くなっている。この意見は、特に十代、二十代の人々に多く見られる。人格が形成されていく青年期には、仲間との直接な交流が必要だろう。その交流が大きく制限されたことが精神面に与えた影響は少なくない。このようなことから私は、会話という直接交流が大切であると考える。そして交流とは、健全な人格を形成するために必要なものだ。
 交流とは、ただ単に人と人との間にあるものではない。文頭でも述べたように、文化と科学技術の交流等、何か相反するもの同士の融合を意味する交流も存在すると私は考える。例として、文化と科学技術について挙げられる。文化と聞くと、昔から続く伝統だったり、その名残などが思い浮かぶだろう。反対に科学技術ときくと、最新の機械や未来に期待する道具が思い浮かばないだろうか。正反対のこの二つには、どうやら親密な関係があるようだ。村上陽一郎氏の「文化としての交流」という評論は、文化は精神的生活に関わるものと捉える。この立場では、科学は文化の中核を成すものだ。私たちは、「科学的な証拠」や「科学による証明」という言葉に、安心感を得る傾向にある。このように科学は私たちに精神的安心を与えてくれる。文化はこの精神的安心の中で成り立っている、そう考えるのならば、遥か昔から文化と科学の交流は始まっているのだ。ここで交流が意味することは、ものとものの間に生じるもの、つまりものとものの接着剤的な存在だ。異なるもの同士を繋げて、いつも私たちに新しい何かをもたらしてくれる。
 人と人、ものともの同士の交流のほかに、私は、次元・時代を越えた交流を追加したい。次元を越えた交流の例を挙げると、それは最近よく耳にするVRだ。VRとはコンピューターによって提供される感覚刺激を通じて体験する人工的な環境のことだ。私たちが生きる三次元での決定が、二次元の世界に反映されることもある。これは立派な交流だとは言えないだろうか?三次元で手を伸ばし、二次元の何かをつかむ。そのとき二つの次元の間には確かな交流が存在しているはずだ。
 時代を越えた交流を私が強く感じたのは、修学旅行で、沖縄を訪れたときだ。平和学習のために向かったひめゆりの塔には、実際に当時の人々が逃げ込んだガマがあった。戦争の時代を生きた人々が立った場所に、私たちが立った。実際にその場所に立ち、その風に吹かれるからこその交流もあると私は考えている
 以上のことが私が考える交流の例だ。ここで述べた交流の全てに共通するのは「相手」が存在することだ。交流はいつでも、相手を必要とする。相手とは何も人間に限ったものではない。それはものであったり、違う次元に存在するものであったり様々である。
 交流の機会が断たれると、交流の大切さが改めてよく分かるだろう。私たちの日常生活の中には、たくさんの「交流」が存在している。そしてそのどれもが、私たちの人生を豊かにしてくれるものである。人と直接話すからこそ感じられること。次元を超えて触れ合うからこそ得られる新しい発見。時間を越えて同じ場所に立つからこそ共有できる感情。全てが日常生活を鮮やかに彩ってくれる。交流には不可欠な「相手」の存在を大切にしていきたい。
 交流とは、系統・組織・地域などを異にする人々や文物が互いに行き来すること。交流とは、私たちの生活に、豊かさをもたらし、彩りを与えてくれるものである。これからの人生を少しでも良く生きていくために、いつでも「相手」の存在を大切に思いながら生きていきたいと思う。



佳作 「交流のないIFの世界」 五条高校2年 竹内 美咲

 私たちは、日々様々な交流をして生活をしている。また、この生活も今日この時までの歴史の中で交わされてきた交流の賜物だと考えることが出来るだろう。では、この交流が止まってしまえば、どうなってしまうのだろうか。
 国語辞典によると、交流とは「異なる組織や系統に属する者の間に、人の行き来や交渉が行われること」とある。それであったらコミュニケーションとほとんど同じ意味なのでは、と感じられるかもしれないが、コミュニケーションの意味は「社会生活を営む人間がお互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる」とある。ここからも分かる通り、「交流」とは、文化や価値観が違うことが前提で人や物などが行き来することである。
 そんな交流のメリットとは何か。一つは、様々な価値に触れることができることだと思う。価値観の大部分は、生まれ育った環境によって構成されている。昨今はグローバル化が進んできたことで、異なる国で育ち自分とは異なるバックグラウンドを持つ人々との交流が容易になった。それにより多様な価値観に触れることが可能となった。自分が当たり前だと思っていたことが、海外ではそうではなかったと分かることもあると思うので、固定観念を取り払い、視野を広げることができるだろう。それにより、自分の国や自分を振り返るきっかけにもなるだろう。
 もう一つのメリットは、様々な力が身につくことだと思う。例えば、言語力や柔軟性、忍耐力など。言語力は、異文化や異国人の人と交流をしているのだから「なんとかして相手とコミュニケーションを取らなければ」という状況下に身を置くことができるため、自然に他国の言語を習得できるのだ。「外国語を手っ取り早く使えるようになりたいのならば、外国人の恋人をつくれ」というのはこのためであろう。まぁ、恋人から「名詞しか言わないじゃん。」やら、「あなたの英語って赤ちゃんみたいね。」と言われるかもしれないが。また、日常的に英語を聞く機会が自国で暮らしているときの比ではないので、耳がそれに慣れて勝手に覚えていくからという可能性もあるだろう。忍耐力については、特に外国の方と共に働く場合など、日本人ばかりの環境では、当たり前だったことが全く通用しなくなることがあるだろう。最初はイライラしたり、不満が多く溜まったりすることもあるかもしれないが、その気持ちをグッと堪えて、相手に合わせて会話を上手く進めていくことは忍耐力の向上につながるだろう。
 では、急速にグローバル化し、人の、モノ、カネ、文化の流動性が高まっている現在の世界で交流が止まってしまえば、どうなってしまうのだろうか。
 グローバル化したこの現在の世界でも、異なる文化に違和感を覚える人や、差別してしまう人がいるのである。今より更に差別や偏見が生まれるのではないだろうか。また、国際交流や異文化交流の目的の中に、異文化に対する理解と認識を深め、自らの生活や地域社会、文化の再構築を図ることがある。交流をしなければ自らの文化と異なる文化の違いが見えて来ず、文化の成長も、再構築もせずにずっとプロトタイプのままかもしれない。もし文明開化の時代に外国を見てまわっていなかったら幕末の頃の文化に満足して何もせず、欧米列強の植民地になっていたかもしれない。その更に前、中国と貿易をして、貨幣が入って来なければ、私達は今頃も物々交換をしていたかもしれない。その更に更に前、弥生時代に大陸から逃げた人々と関わっていなかったら、今は日本人の主食の一つであるお米を食べていなかったかもしれない。また、稲作を行っていなかった影響で、日本の人口が減り、少子高齢化どころではなかったかもしれない。
 また、交流をしなければ異文化、外国人に対して偏見が生まれると先程述べたが、偏見によって戦争や紛争につながるのではないかと私は考えた。昨年「進撃の巨人」のアニメも完結し、それを見たのだが、簡潔に説明すると、主人公たちが、世界から「悪魔」と呼ばれ偏見をもたれる状況を世界ごと壊そうとする、というものであった。主人公たちを悪魔と呼んでいる世界側は主人公たちのことを「恐ろしく、残虐な、人間以外の何か」だとしか思っておらず、一人一人に生活や、様々な思いがあると微塵も思っていない。相手は悪で、自分たちは絶対的な正義であると思い込んでいる。これは、今の社会問題にも当てはまるのではないだろうか。現在、ウクライナやシリア、イエメンなどで紛争が起き、パレスチナ・ガザ地区で武力衝突が激化している。これらの紛争は、自分たちは絶対的な正義、相手は悪だという偏見や思い込みのせいではないだろうか。交流がないから自分たちのことだけしか考えず、相手のことを全く知ろうともしない。
 このように、交流をしなければ文明は初期の方で止まってしまい、発達することが困難となったり、偏見や思い込みを生んで紛争や戦争につながってしまったりする恐れがある。よって、私たちは交流をして異なる文化をもつ人や外国の人と出会い、視野を広げる必要がある。



佳作 「多様な国際交流」 津島高等学校2年 川瀬 真央

 交流とは、積極的にコミュニケーションをとることで、お互いに信頼関係を築いていくことである。社会のグローバル化が進む中で、国家間の外交関係だけでなく一般市民が交流することで異文化に対する理解を深める必要性も高まってきている。その上で自国の人だけでなく、他国の人とも交流することは、お互いの国についてよく知ることであり、異なる文化や価値観を理解するきっかけとなる。日本が今後も世界に開かれた社会であり続けるためにもこのような交流をすることはますます重要な取り組みになってくるのではないだろうか。そこで私は、国際交流に着目して他国の人と関わるうえでのメリットについて取り上げることにした。
 最近は仕事上だけでなく学生が交流する機会も増えている。国際交流をする場では、日本語とは異なる言語を用いる人々と交流することになる。そこで「何とかして相手とコミュニケーションを取らなければ。」という状況に身を置かれることになるため、自然に他国の言語を学ぶことが可能となる。そうすることで他国の言語が使えるようになれば、異国の人との繋がりを得る機会もますます増えていくだろう。また、日本人は特に初対面の相手に対して上手くコミュニケーションをすることを苦手とする傾向があるため、会話だけでなくジェスチャーなどの非言語コミュニケーションを用いることも交流する上での重要な要素になるだろうと考える。国際交流の場では、言葉のみでのコミュニケーションが難しくなる。だからこそ、身振り手振りを多様にして伝えたいことを積極的に伝えようとする姿勢が大切だ。
 私が通っていた中学校では毎年姉妹都市交流がある。そこで異国の人と交流する上で最も苦戦したのが自分の伝えたいことや感情をうまく英語で表現できないということだ。相手に自分の思いが理解してもらえないと、コミュニケーションをするということに対して消極的になってしまいがちだが、無理に言葉で伝えようとするのではなく、非言語コミュニケーションなどの言葉以外の手段を用いることにより、大まかな内容を伝えることが可能となる。さらに、異国の様々な文化を学ぶと同時に、その地域特有の遊びなどの体験を通すことで価値観の違いから驚きや興奮、今まで味わったことのない幸せや感動をも感じることができる。積極的な交流を図り、自らの価値観を広げ多様な文化や考え方に触れることで、自分が住む国や地域のよさを再発見したり、地域の課題を見出したりすることも可能性になるだろう。このように、何らかの手段を用いて相手とコミュニケーションをとろうとすることもなく、ただ相手から話しかけてもらうのを待つなどといった受け身の姿勢でいては、何も学ぶことが出来ず、コミュニケーションすら成り立たない。だからこそ、他国の人々と積極的に交流をし、異文化や価値観を理解しようとする積極的な姿勢がやはり交流する上で大切になるのではないだろうか。
 しかし、この問題を巡って、価値観の違いをストレスだと感じる人もいる。確かに日本と海外では文化やマナーの違いが少なくない。食事をする際、日本では、食器を手で持って食べるが、海外ではそれがマナー違反に当たってしまったりする。仕事や旅行で海外を訪れた際、当たり前だと思っていたことが日本固有の文化だと知って驚くことも当然あるはずだ。このように国ごとに特有の文化が存在するため、なかには異国の文化との違いから理解し難いこともあるだろう。しかし、それは海外から日本を見る視点にも共通することなのだ。国境を越えれば倫理観も常識も全く異なる。よく「自分を変えたいときや悩みを抱えているときに海外に行く」などと耳にすることがあるが、大抵の人が口を揃えて言うのが「行ってみて良かった。」ということである。なぜ海外に行くことで気持ちに余裕ができたり、考え方に違いが生まれたりするのだろうか。これは悩みが解決したというわけではなく、多種多様な価値観に触れることで、自分の中の「当たり前」という固定観念が覆されたことにより、悩みが気にならなくなったからだと私は考える。異国の文化に触れ合えば触れ合うほど、自分の中の「当たり前」という固定観念が更新され、それまでの観念にとらわれることなく更なる飛躍にも繋がるのではないだろうか。
 このことから、国際交流は文化や価値観について理解を深めるだけでなく、問題解決の糸口にも繋がるものだと考える。これだけに留まらず、コミュニケーションによる市民同士の国際的な信頼関係が相互関係と発展していき、日本のより良い日本の社会の醸成をうながすことへ繋がっていく。今後ますますグローバル化が進んでいく社会において、語学力を身に付けることはもちろんのこと、主体的かつ積極的に異文化に対する理解を深めていくことが求められる。



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