H29年度 稲葉真弓 懸賞論文 選考結果 / H29年度 最優秀作NEW / H29年度 優秀作NEW

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H24年度 稲葉真弓 懸賞論文 総評 / H24年度最優秀作・優秀作
H23年度最優秀作・優秀作 / 創立110周年記念 最優秀作



◆平成29年度 稲葉真弓 懸賞論文 選考結果

◇テーマ 『選択』

◇応募総数543点

津島北高等学校119点 五条高等学校6点 稲沢東高等学校2点
海翔高等学校2点 津島東高等学校11点 美和高等学校2点
清林館高等学校1点 愛知黎明高校2点 稲沢高校1点
杏和高等学校19点 愛知啓成高校21点 津島高等学校357点

◇入賞作 7点
 <最優秀賞> 1点
  津島東高等学校 1年 下ノ薗 真琴

 <優秀賞>  1点
  津島高等学校  1年 山下 歩

 <佳作>   5点
  清林館高校   2年 加藤 三奈
  五条高校    1年 三輪 俊太
  津島東高校   2年 浅井 陸
  杏和高校    1年 熊沢 咲良
  美和高校    2年 神尾 明日香

◆平成29年度 懸賞論文 最優秀作

最優秀作 「語彙力という選択肢」 津島東高等学校 一年 下ノ薗真琴

 私たちは人生において常に選択に迫られている。それは意識的なものや、無意識的なものなど様々である。また、私たちの未来に直接関わるもの、そうでないものなど、選択による生活環境への影響力の大きさも様々である。

 私は、このような選択という広範囲なジャンルの中から、最も身近ともいえる言葉の選択に注目した。言葉には「言霊」が宿っていると言われる程、言葉は発言者の思いを強く込めることのできるコミュニケーション手段である。言葉の選択は、日常的な行為であるため、小さな選択に感じるかも知れない。しかし、言葉は、選択の仕方によっては、人間関係や、自分自身が周りに与える印象に変化をもたらすという大きな影響力を持っている。したがって、より良い言葉の選択をするためには、選択の幅を広げることが重要である。その幅を広げ、選択肢を増やすためにも今私たちがしなければならないことは、語彙力を身につけることである。

 最近、「やばい」という言葉を耳にする機会が増えてきた。特に私たち高校生の間ではこの言葉を耳にするのは日常茶飯事である。しかし、「やばい」という言葉を使うことで、友達との会話ですれ違いが生じたり、話が噛み合わなかったりするといった経験をしたことはないだろうか。このような現象は、「やばい」という言葉を使う機会が増えてきたことに比例して増えてきている。なぜなら、「やばい」という言葉には、プラスの意味もマイナスの意味も含まれているからである。「やばい」という言葉は、本来不都合な様を意味する「やば」が形容詞になったもので、主にマイナスの意味で使われていた。しかし、今日ではプラスの意味で使われることも増えてきた。そのため、プラスマイナスどちらの意味としても捉えることのできる、「やばい」という言葉の本質を理解しないまま会話が進み、誤解やすれ違いが生じるのである。

 また、「やばい」は万能性を持ち、非常に便利な言葉でもあるため、私たちは返答に困ると「やばい」という言葉に逃げてしまう。私も実際にそういう経験をしたことがある。友達と会話をしている中で、「あの歌手やばくない?」と聞かれた時に、「良い」というニュアンスなのか、「悪い」というニュアンスなのかを理解できず、「やばいよね。」と返し、逃げてしまった。あのときの私の「やばい」には、私の意思は何も込められていない。その時のニュアンスを理解していなくても、適当に相手に共感することができる「やばい」を魔法の言葉だと思い、濫用する人も多い。しかし、話し相手の何らかの思いが込められた言葉に、本質が見えていないまま返答することは、大変失礼で悲しいことではないか。

 また、日本語には「やばい」という言葉のように、同じ言葉でもニュアンスが大きく異なるものが無数にある。「適当」という言葉もそれに当たる。例えば、「この本を適当な場所に片付けておいて」と言われたら、あなたは「適切な場所に戻して」という意味と、「どこでもいいから戻して」という意味と、二通りの捉え方のどちらに理解するだろうか。この場合、自分の選択した言葉の意味が、未来の行動に影響してくる。だから、「やばい」という言葉のように、捉え方を曖昧にして逃げることができない。

 これは、自分が言葉の受け取り側であることが前提の場合である。しかし、もし自分がその言葉の発信者であるとして、相手が間違った意味として捉えたとしたならば、「適当」という言葉の本当の意味を理解できなかった相手に対して、腹を立てるのだろうか。私は発信者の言葉の選択に問題があると考える。「適当」という言葉には、「丁度良い具合に」という意味の他に、「いい加減に」などの意味も持ち合わせている。「この料理は適当な味だ。」という言葉の使い方から、「この料理は丁度良い味だ。」のように、言葉を少し変えるだけで、受け取る側は理解がしやすくなる。その結果、誤解やすれ違いが生じることを減少させることができる。

 このように、今の私たちは便利な言葉に頼りすぎていることが分かる。これらの言葉は、使用するシチュエーションを正しく選択すれば、極めて使い勝手の良いものになる。その反面、すれ違いなどを引き起こしやすくさせるというデメリットもある。また、先にも述べたとおり、言葉の選択によっては、自分の印象が良くも悪くも周りに映ってしまうことがある。そのため、ただそれらの言葉に頼るだけでなく、「使用する時、場所、相手を選択すること」と「受け取り側に優しい言葉を選択すること」という二つの選択をすることが重要である。それらの選択を間違えないように、私たちはより多くの言葉を学び、語彙力を身につける必要がある。

 「語彙力を身につけることが何の役に立つのか」と考える人も多いと思う。しかし、その考えは、私たちがまだまだ未熟で、それでも許される世界にいることからくるものではないだろうか。やがて私たちは大人になり、学校という社会の縮図ではなく、本当の広い社会に出る。その時に語彙力が無いと、人の話が理解できない場面が増えるだけでなく、年齢に相応しい言葉を使うことができなくて困るだろう。その時になって後悔しないために、私たちは今こそ学ぶのである。語彙力を身につけること、つまり、より良い言葉を選ぶための選択肢を増やすことは、決して無駄にはならない。

 高校生という様々なことを学ぶに適した時間を、何も考えずにただ卒業を待っているのと、少し先の未来を見据えて、日々の中から自分が成長できるヒントを探すのとでは、大いに将来が異なる。今学ぶことは必ず未来の自分に繋がる。私はこの機会に、自分自身が日頃話している言葉の選択について見直してみたい。そう思うことも、自分自身を成長させる大きな選択だ。

◆平成29年度 懸賞論文 優秀作

優秀作 「選択と共に生きる」 津島高等学校 一年 山下歩

 どこへ行き、何をして過ごすか。何を学び、何を大切にし、どんな姿であろうとするか…。人間は生まれてから死ぬまで、実に多くの選択を行いながら生活を送っている。この無数の選択の中には、明るく楽しいものも、厳しく辛いものもある。夢や希望を与えてくれるものも、厄介に思えて仕方がないものもある。そして、程度の差こそあるものの、「選ぶ」ということには手間と時間が掛かる。つまり、選択は面倒なことなのである。初めから全てのことが決められており、選択を行う機会が無い方が、随分と楽であると考えることもできる。しかし、それでは何故、私たちは選択を繰り返す必要があるのだろうか。それは、選択するということが、そのまま自分自身や周囲の環境を形作ることに繋がり、人生をより豊かで深みのあるものにしているからである。

 日常の中には、些細な選択が溢れている。食べるものや着る衣服を選ぶ際、何かを購入する際における選択は、私たちに「選ぶ楽しみ」を感じさせる。また、このような選択では、異なる選択肢のどちらにも魅力を感じ、一つに決めることが難しい場合でも、「どちらにしようかな、神様の言うとおり……」と運に任せて決めることや、自分ではなく、他者に選択を委ねて決めることができる。このような選択の方法は、どのような選択をしても結果としてはさほどの違いは起こらないということを理解しているからこそ可能なものである。日常的な選択は、このように自由で気楽な選択なのである。

 もし、毎日同じ食事を摂り、同じ服装で過ごすというように、日常的な選択が制限されていたらどうだろうか。選択のために使っていた時間を削減できる代わりに、退屈に襲われることになるだろう。私たちは、何でもないような細かな選択の違いによって、無意識のうちに変化をつけ、それを楽しんでいるのだ。当たり前のように思える「選択肢が複数存在する」という事態は、私たちに日々の流れを感じさせ、新鮮な気分にさせているのである。

 それでは、この時、選択肢は多ければ多いほど良いのだろうか。私は、必ずしもそうであるとは限らないと考える。文化やテクノロジーの発展により、物や情報が大量に溢れている現代の社会では、日常的な選択に於いて、その候補となる選択肢の数が格段に増えた。選択の幅が広がったこと、それはより便利で自由になったことを示すが、同時に、選択することに対して、これまで以上の労力が必要とされるようになったということでもある。選択することばかりに時間を費やし、その他の行動がおろそかになることは望ましくない。したがって、どの選択を優先するかを予め決めておくことや、素早く選択を行うことも必要だと考えられる。

 これまで述べてきた日常的な選択の他にも、私たちは様々な選択を行っている。高校受験の際の受検校の決定や、秋に行われた二年時の類型登録といった学業における選択は、高校一年生である私にとって記憶に新しく、印象に残っているものである。これらの選択は、慎重な判断が必要で、すぐには結論を出せないこともあり、選択すること自体に苦痛を感じることもあった。また、様々な制約があるために、本来の希望とは少し異なる選択をしなければならず、あまり納得のいかないこともあった。しかし、こうして選択を終えた今、私は、「本当にこの選択をして良かったのだろうか。」と思うことはない。過去の選択を悔やむことなく、前向きに捉えられるのは、時間を掛けてしっかり考え抜いた結果だといえる。つまり、自らの将来を左右させるような重大な選択では、その選択に真剣に向き合い、それぞれの選択肢を十分に検討することが必要なのである。この過程で、私たちは自分を高めることができるのではないだろうか。どのような場合でも、選択することから目を背けず、自分との対話を続けることで、過去の経験から自信を得たり、新たな策を生んだりできるのだ。

 「取捨選択」という言葉があるように、私たちは選択する際、いずれかを選ぶと同時に、それ以外の選択肢を捨てている。これを踏まえると、選択するという行為は、自分が持っている可能性を摘み取ってしまうことになり、一見すると良くないことのように思える。しかし、それは自分の可能性を絞り、より明確にしていくために必要不可欠なことなのだ。捨てるものは潔く手放し、取るものは一貫して責任を持つという区別を行うことも大切なのだ。

 私たちは、これからも数多くの選択を迫られるだろう。そして、その選択は、より複雑なものが増えるだろう。選択を迷った時には、自分にとって最も良い選択はどれかを見極めようと努めることや、考えを整理し、自分の中でしっかりと「取捨選択」を行うことがとても重要である。そうして思い悩んだ末に選んだ道こそが、私たちを理想の未来へと向かわせるのだ。

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