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◆第10回 稲葉真弓賞(三稜会懸賞論文)選考結果

◇テーマ 『新時代』
◇応募総数 548点

津島北高等学校115点 杏和高等学校60点 稲沢東高等学校4点
佐屋高校3点 五条高等学校2点 愛知黎明高校2点
清林館高等学校1点 佐織工業高校1点 美和高校1点
津島高等学校359点      

◇入賞作 6点
 <最優秀賞> 1点
  佐織工業高校 1年 山田 悠斗

 <優秀賞>  2点
  清林館高校  1年 田村 夏鈴
  杏和高校   1年 荒井 かこ

 <佳作>   3点
  津島高校   1年 伊藤 咲希
  津島高校   1年 𠮷次 彩恵
  佐屋高校   1年 山本 紗彩
※学年は応募時点となっております。
多数のご応募ありがとうございました。



◆入賞作品

最優秀賞「新時代を担うために今何が必要か」 佐織工業高等学校1年 山田 悠斗


 近年「eスポーツ」というものが注目され始めているが、私は中学生の頃からeスポーツのシューティングゲームの大会に出て、いろいろな国の人と会ってきた。大会の会場では翻訳アプリなどを使って他の国の選手たちと会話をすることができる。アメリカでの大会に出た時に、ある学校の授業風景を見た。その学校では生徒一人一人がみな自由に意見し合い、日本の型にはめるような教育とは全くかけ離れたものだった。こうした経験を通して、新時代を生きる我々には、産業の発展とともに教育制度の変化が必要不可欠だと思った。
 当時の私は中学生だったが、高校に上がれば生徒は自由に意見し合い、とても充実した高校生活になると思っていた。だが、現実は違った。私は工業高校に入学したが、とても自由とは感じられず、やはり型にはめようとしているように思う。私は部活動ぐらいは自由にできるのではないかと思っていた。eスポーツ部を作ろうとしたが、最初はどこで誰に話せばよいかもわからなかった。話を聞いてもらった先生からは、ネット環境や設備費などが足りないと言われ、なかなか話が進まない。私はあきらめず、eスポーツ部を作るために頑張っているが、新しい部活動を作るのは簡単ではないと分かった。私は教育の場面では、生徒がもう少し自由に意見が言え、新しいことに挑戦出来るようにすることが重要だと思う。型にはめないような教育こそ、今の日本が新時代に入るために必要なことだと思う。
 あるIT関係の会社では服装が自由で、自分の意見を書いて意思表示をするシステムがとられ、その意見が仕事に反映される。そんな自由な会社がある。私はその会社に社会見学で行ったことがあるが、勤めている人はみな生き生きと仕事に取り組んでいた。さらにその会社では、社員同士がコミュニケーションを取り合うことを欠かさないでいた。このように自由に意見が言え、その意見をすぐに反映することで会社の売り上げは伸び、大手企業となった。日本が産業で新時代を生き抜くためには、この会社のようなシステムを取り入れることが重要だと思った。
 今の日本には未来を見据えた政策が必要だ。日本は医療関係の政策ではアメリカよりも進んでいると聞く。だが、アメリカは、先進的な産業や最先端の技術では日本より進んでいる。それはなぜか。教育機関への政策の違いだと私は思う。なぜそう思うか。日本の教育機関に対する予算は、全体の一%もいかないそうだ。他の国では最低でも一%は教育に予算を割り当てているそうだ。アメリカでも教育に割り当てている予算は大きく、日本より教育面では進んでいると言えるだろう。未来に投資するという点で、教育政策はもっと重視されるべきだと思う。
 だが、新時代に向けて、今の日本に足りないものはそれだけではない。私はゲームの大会に出場するためにアメリカに行った時に、私と同じ年齢くらいの男の子にあった。その子もゲームの大会に出場するためにその場にいたが、そこでお互いの国の教育について話したことがあった。彼は、学校は楽しいが生徒間でのカーストのようなものがすごいと言った。経済的な格差や人種差別などがあり、成績や友人関係などで超えられない壁のようなものがあるそうだ。だが、彼はカーストがあることには肯定的でいた。なぜかと聞いてみると、彼はこう言った。「上と下がいて当たり前。アメリカは自由な国だからこそ頭のいい学者や医者が生まれる。カーストは確かにダメなことかもしれないけど、そのカーストこそが今のアメリカを作っている。だから日本の教育はとても不思議だ」と。その話を聞いて、自由だからこそのカーストがあり、上と下がいて、その上の人がいい学者や医者になり、今のアメリカを作っているのだと私も思った。
 また、ドイツでは自動車をはじめいろいろな産業がとても盛んであるが、それはなぜか。ドイツでは教育にとてもお金をかけている。小学校から大学まで、すべての公立学校の学費は公費負担で、実質無料で学校に通うことができるそうだ。つまり、ドイツは今の世代より次の世代を見据えて教育にお金をかけているのだ。今の世代のための政策を優先している日本とは全く別物である。
 日本が新時代についていくには、もっと教育にお金をかけることが必要だと思う。そしてアメリカのような生徒一人一人が自由に意見が出来る、そんな教育を作る政策が必要だと思う。しかし、私たち一人一人も変わっていく必要がある。今の我々世代には、新時代の日本を支えていくという意識はあまりないのではないか。書いている私も最近まではそんなことは考えもしなかった。今、日本の教育のやり方を変えたところで、おそらく教育を受ける我々が意識を変えなければ意味がないと思う。なぜなら、今私がいる高校でも、勉強できない人、積極的に取り組まない人が多くいるからだ。それは新時代を担うべき我々に意識が乏しいと言えるのではないだろうか。一人一人が少しでも意識を持てば、たとえ今の教育の制度が変わらなくても、日本は少しでも良くなると思う。だからこそ今の日本の政府だけではなく、我々の世代の人たちにも私は言いたい。日本が新時代を生きるためには、教育の制度を変え、教育を受ける我々も次の世代を担うという、責任または意識を持たなければならない。我々が、これからの新時代の日本を変えていくのだ、と。



優秀賞 「理想の生き方」 清林館高等学校1年 田村 夏鈴


 令和という新しい時代が始まったといっても、すべては地続きの過去からの贈り物。これからの私たちに必要なのは想像力と思いやりだ。これは電車でお年寄りや体の不自由な人に席を譲ることなどを始めとしてありとあらゆる面で言えることだが、今回は性的少数者に焦点を当てて考えてみたい。
 性的少数者とは、同性が好きな人や、自分の性に違和感を覚える人、または性同一性障害の人などを指す。最近ではLGBTと称されることも多い。しかしレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの英語の頭文字を組み合わせたこの言葉が発生したのは、一九九〇年代で、性的少数者の中にはこの四つのカテゴリーに含まれない人もいる。
 さて、性的少数者にあたる人々は、長きにわたり周囲からの偏見に苦しめられてきた。そしてこの理解と偏見をなくすことは、令和になった現代の大きな課題と言えるだろう。
 二〇一九年現在、性的少数者への理解を示す声は少なからず存在する。ただしその「声」はネットなど、匿名性の高い場所で見るものが大半で、実際に理解が必要な場面ではほとんど見られないのが現状だ。
 例として、災害時の避難所が挙げられる。支給される下着が受け取りにくかったり、シャワーなどの使用を男女別にされたせいで利用がしづらかったりと、各自治体の配慮不足は否めない。もちろんこれらは改善されていくべき点だが、自治体と関係なく彼らを悩ませたのは人の目である。
 二〇二〇年一月十九日の毎日新聞に、それについて言及した記事があった。熊本地震が起きた当時、ホルモン療法を受けていたあるトランス男性(体の性は女性だが自認の性が男性である人)は、避難所へは行かず車中泊で過ごし、その後無料開放された市内の入浴施設にも人の目を考えて行けなかったという。人の目を気にしなければいけないということは、人々の偏見の目は未だ根強いということだ。
 一七四九年のイギリス海軍の懲罰法では、同性愛による性行為を罪とし、これを犯したものを死刑にするというものがあった。正確には「人間と獣の、あるいは男同士の自然にそむく性交」を禁止した法である。後述するが、自然界の動物でもオス同士の交尾は発生するので、男性同士の行為が自然にそむくことにはならないはずである。にも関わらず男同士のそれが自然に背くと称されたことからも、その時代の偏見の強さが垣間見える。
 さまざまな運動により、性的少数者の社会的地位は確立されてきた。日本でもパートナーシップ制度が一部自治体で認められているが、同性婚は未だ認められていない。愛し合うふたりなら好きに一緒にいればいいじゃないか、という無責任な意見もある。日常では確かにそうかもしれないが、非常時に書類上ただの同居人では、異性カップルに比べてあまりにハンデが大きい。
 日本は災害大国とも呼ばれ、特に地震が多い。それが起きた時に向かうのが前述の避難所だが、同性カップルの視点で見るとまた違う問題が出てくるのだ。
 災害対策基本法の施行規則では、照会者が「同居の親族」か「同居以外の親族か職場の関係者」か「知人その他」の三つのいずれかによって提供できる安否情報の範囲が定められている。「同居の親族」であれば被災者の居所や連絡先、そして負傷の状況を知ることができ、「同居以外の親族か職場の関係者」でも負傷の状況を知ることができる。「知人その他」には安否情報の有無しか開示されず同性カップルは高確率で「知人その他」として扱われてしまう。パートナーシップ制度が導入されている自治体では同性カップルも「同居の親族」と認める方針だが、そもそもパートナーシップ制度すらない自治体にはなすすべがないのだ。災害という非常時、パートナーの居所も教えてもらえないのはどんなに不安だろう。災害時でなくとも、どちらかが事故にあった時に家族として認められない恋人は「友人」の扱いとなり、連絡の優先順位は格段に下がる。愛し合うふたりを家族と認めないことで、利益が出ることはない。それなのに認めないのは、国の中枢を担う大人たちである。
 そんな大人たち代表の政治家の失言には様々なものがあるが、例えば「同性愛は異常動物」や、宮中晩餐会への同性パートナーの参加に関する「日本の伝統に合わない」などの発言は、偏見以外の何ものでもない思想によるものだ。バンドウイルカは自然に生きる動物だが、同性の個体でも交尾することが確認されていて、同性愛を異常動物と呼ぶのなら一部の野生動物も否定することになる。後者に至っては、江戸時代に存在した衆道という文化の否定すらしている。こうして並べると、少なくとも政治家たちの偏見に塗れた失言は認識不足と無知によることも大きいようだ。
 偏見とは偏った思想のことを言う。思想が偏らないためには、知ること、思い込まないことが大切だ。そこで肝要なのが思いやりと想像力である。
 他人の気持ちについて考えるとき、人間はまず「相手が自分だったら」と相手の立場に立って考えてみようとする。ただしこれは考え方を間違えれば「相手が自分だったらこんなことにならないので相手がおかしい」などの極論に向かってしまう恐れがある。例えばトランスジェンダーの立場になってみようとした時、自分の心と体の性がずっと一致している人間にはいまいちその感覚はわからないだろう。だが事実として心と体の性が一致しない人は存在するので、理解しようとすることを諦めないでほしい。それが想像力だ。そして、どれだけ考えても理解できなかった時、「理解できないから相手がおかしい」ではなく「そういう人もいる」と割りきり、過干渉を避ける思いやりを持ってほしい。
 令和という新しい時代を生きる我々に必要なのは言ってしまえばそれだけで、だからこそ一人一人の意識の改革が重要になる。平成までの時代で培われてきた良い風習だけを受け継ぎ、先人たちの過ちを繰り返さないよう学び、時代錯誤な差別的思考は全て跳ねのけて生きていきたいと思う。



優秀賞 「新しい事への飛び込み」 杏和高等学校2年 荒井 かこ


 「令和」という新元号になり、我々日本人は新たな時代の幕明けを迎えた。一人一人にははっきりとした内面的変化はなくとも、今までよりもずっと早いスピードで社会の変化を感じる。そんな中、日本の将来を担うと言われている私達学生は、この変革期をどう生き抜いていけばいいのだろうか。
 今回私は、「令和」という新時代をどんな時代にしたいのか、そのために自分は何ができるのかを、日本の改革すべき風潮に絡めて明確化していく。
 昨今の日本は、平等が大切だと言いながら、いまだに少数派を否定する風潮が深く根付いていると私は考える。例えば、皆さんは「タトゥー」に対してどんなイメージを持っているだろうか。日本では、暴力団やヤクザを連想して、マイナスなイメージを持っている人が多い。しかし、この考えは日本人特有の考え方であり、外国の人達にとってタトゥーは決して否定的なものではない。では、日本でマイナスなイメージが蔓延している原因のほとんどが暴力団やヤクザかというと、そうではないと私は考える。他の原因として、「親から貰った体に傷をつけてはいけない」という考え方や、興味を持っても周りと違う行為をすることに気が引ける、という考え方の人が多いことがあげられる。また、「整形」も「タトゥー」と同じで、日本では悪と捉える人が多いが、韓国をはじめとする外国では、なにも問題視されない。これも、体を傷つけてはいけない、周りと違う行為をしたくない、という考え方なのだろう。このことから日本人は、本来の体を大切にするという良い部分もあるが、一方で同調圧力に弱く、その結果、少数派を否定的に捉え、嫌う傾向があると言えるだろう。
 また、これは現代の職業にも通ずるところがあると私は考える。マッカーサー財団のデジタルメディア&ラーニング・コンペティション共同ディレクターは、二〇一五年時点の予想で「二〇三〇年には、今の子どもたちの約六五パーセントがまだ存在していない職業につくだろう。」と言及している。
平成でも、ユーチューバーやゲームクリエイター、プログラマーなど、新しい職業が次々と登場し、そういった職種に憧れる子どもたちも増えてきた。
 だが、新しい職業には、必ずそれらを排他的に捉える人達がいる。確かに平成では、時代が急速に変化し、今までに無かった物や、取り組みに不安になったり、受け入れることに抵抗があったりするのは、仕方がないことだ。私も、友人がプロゲーマーになりたいと言った時に、「不安定だし、認知度が低いし、やめた方がいいのでは。」と
言ったことがある。私の他にも、このような考え方の人が多くいるのではないか。しかし、私はこの発言を後悔し、考え方を改めなければならないと考えた。
 なぜなら、この先も「5G」「人工知能」などのテクノロジーの発展に伴って何が社会に求められるのかが大きく変わっていく。それにより、今はまだ認知度が低い、ドローン操縦士やロボットアドバイザーが任用されていくと言われているこの時代で、依然として日本人が初めて触れるものだから、皆と違うことだからという理由で、理解する前に駄目なものだと決めつけ、新しい職業を否定する人達で溢れる国であり続けるのならば、何の発展も望めない、苦しい時代になるのではないか。
 私は、それらを踏まえ「令和」では、「自由な考え方で選択肢を広げる」ことが大切だと思い至った。近年、人工知能の技術進歩によって就く職業が少なくなりつつあると危惧されているが、それは今まであった職業にこだわっているからであり、これからは人工知能で補える仕事はロボットにあっさりと引き渡し、人間にしかできない職業を増やしていけばいいのではないか。新しい職業とは今まであった職業の応用だけでなく、趣味が高じて収入を得るようになることだってある。前例が無いからといって、臆病になる必要はなく、人生の中で自分の意志で選択したものを仕事にするという自由な発想が大切であり、それこそが、人にしかできない新たな職業を作り出していくのだ。今までにないような不安定な仕事だって偏見を持たず、果敢に挑戦していくべきである。故に、私は「令和」を「自由な発想で選択肢を広げていく時代」だと捉え、この時代を生き抜く上でまず何よりも「自由な発想」が大切だと考える。そしてその「自由な発想」を尊重し、新たな選択肢に繋げるためにも、日本人特有の偏見や同調圧力を薄めていかなければならない。一人一人がその意識を持ったとき、平成から続く変革期が収束し、初めて本当の意味での新時代が始まるだろう。
 もし私が歳をとり令和が終わる頃、令和がどんな時代だったかと聞かれたら、考え方や文化が多様化し、自分の気持ちを大切にする若者に溢れ、今の日本の先駆けになった素晴らしい時代だった、と胸を張って答えられるよう、まずは自分の中で凝り固まっている固定観念を壊し、興味を大切にし、新しいことに進んで挑戦していきたい。



佳作 「優しさの伝播」 津島高等学校1年 伊藤 咲希


 平成が終わり、令和という新しい時代が始まった。「令和」とは、万葉集から引用したもので、日本の四季折々の文化と自然を次の世代に引き継ぐという思いが込められているそうだ。「次の世代に引き継ぐ」私達は新しい時代に文化や自然以外に何を引き継いでいくべきなのだろうか。
 そのような事を考えている時、祖母が亡くなった。祖母は誰にでも同等に優しく、自分よりも他人を優先する思いやりに溢れた女性だった。祖母は亡くなったけれど、祖母と過ごした時間はなくしたくないと思い、私も祖母のような優しさを引き継いでいきたいと思った。そこで、私が新時代に引き継ぎたいものは、「優しさ」や「人に寄り添う思いやりの心」だと考えた。
 しかし、「優しさ」や「人に寄り添う思いやりの心」を引き継ぐ意味がないと考える人もいるだろう。だが、これらを継受することによって、平成のような、日本では戦争がなく平和で、天災が起きた時に助け合える時代になっていくだろう。
 先日、「即位礼正殿の儀」が行われた。その中で、天皇陛下は「国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓う。」と宣言された。天皇陛下が「国民に寄り添う」と「平和」というお言葉を使われ、天皇陛下も国民に寄り添い、平和な時代を望んでいるのだと感じた。また、天皇陛下の即位に伴う祝賀パレード「祝賀御列の儀」が延期された。台風十九号で東日本の広い地域で被害が出ており、被災者に配慮したもので、これも人に寄り添う思いやりの心であると考える。
 平成には、阪神淡路大震災や東日本大震災など、たくさんの災害が起こった。その時、たくさんのボランティアが活躍した。家具の片付けや炊き出し等の直接的な復旧支援のみならず、被災者の活力を取り戻すための交流機会作りや被災者へ寄り添うことなどが行われた。国内だけでなく、様々な国から物資が届けられた。以前、スマトラ地震が起こった時に、日本が救援したモルディブからは、義援金や特産物のツナ缶が届けられた。義援金を出すことができない貧しい国民でさえもツナ缶を持ち寄るということがあり、合計約六十九万缶が届けられた。ボランティアに参加できなくても、国内外で物資や募金などで被災者を助けたいと思う優しさがたくさんあった。
 さらには、台風十九号の影響でラグビーワールドカップの一部の試合が中止となった。カナダは戦わずして、無念の最下位が決定したが、選手達は台風の被害があった釜石に残って路上に堆積した泥の清掃作業などのボランティアをした。この優しい行動を人々は称賛した。
 近い将来、東海地方で南海トラフの発生が予想されている。災害に備える事も重要だが、発生してしまったらみんなで助け合っていく必要がある。つまり、一人一人が自分のことだけでなく、自分以外の人を思い、寄り添って助け合っていくことが新時代には大切だ。
 台風十九号では、道路や鉄道が寸断された。日本ではここ数年、自然災害などが頻繁に発生しており、人工知能とドローンの活用が期待されている。災害時、人間では困難とされる災害場所での救助活動や、道路が遮断されてしまった場合の物資援助が可能となるからだ。また、ドローンで空から災害時の状況把握など活用できることだろう。人工知能は災害時だけでなく、介護や農業、医療など益々私達の生活を便利にしてくれるだろう。人工知能が発達すれば、私達の仕事はなくなると心配する声も多いが、最終的に人工知能を管理するのは人間である。令和はより人工知能の発達などで生活は便利になるかもしれないが、人の心を癒やすのは人の心だと考える。人が持つ優しさや思いやりといった温もりが、周りの人を温かくする。その温もりがどんどん広がれば、世の中は今より温かくなる。
 現在、日本では他にも様々な問題を抱えている。少子高齢化による労働人口の減少だ。これを外国人労働者の雇用で補おうとしているが、そこにも問題がある。例えば、外国人労働者への差別だ。賃金が安かったり、働く場所や期間が一定ではないなど、就労の形態や条件が日本人より差別されている。「3K」と呼ばれる「きつい、汚い、危険」な業務を外国人に担ってもらおうという声が強くなっていることも問題だが、日本は多くの外国人労働者を必要としているのに、外国人労働者にこのような差別をするのは酷い行為だ。もし、自分が逆の立場だったらどう感じるか。外国に行って過酷な労働を強いられ、それでも一生懸命働いたのに少ない給料しか貰えない。外国人だからと差別をされる。このような事をされるのは誰でも嫌なはずだ。自分がされて嫌な事を人にするのは、心が痛みなかなか出来ないものだ。それなのになぜ、このような差別が起こるのか。それは自分と違うものを排除し、寄り添うことをしないからではないか。相手の立場になって考え、寄り添い思いやる心を持てば、差別は減ると思う。他にも、経済格差、性的少数者「LGBT」など様々な差別があるが、これらも相手を思いやる心があれば、差別は減るはずだ。
 新時代に何を引き継ぐべきなのだろうか。それは、「優しさ」や「人に寄り添う思いやりの心」だ。人々が「優しさ」や「人に寄り添う思いやりの心」を持てば、新時代は平和で温かい時代となるだろう。



佳作 「新時代」のコミュニケーション 津島高等学校1年 吉次 彩恵


「Was denkst du uber “die neue Ara”?」
 外国人に、いきなり、こう言われたらあなたはどうするだろうか。急いで翻訳アプリを起動させ、機械に頼るだろう。もし、翻訳手段がなかったら、どうだろうか。
 四年前、中学一年生の夏のことである。私は一か月間、アメリカのユタ州にホームステイをした。当時中学一年生だった私が、流暢な英語を語れていたとは言い難い。簡単な日常会話だけで一か月を過ごしたのだ。
 最初は、ぎこちない「Hello !」と、簡単な挨拶を交わした。何を言われていて、話しかけられたのかほとんど理解できず、笑顔で頷くことが精一杯だった。一週間程で、家族の一員として溶け込むことができた。親戚のローレンとパドルボードをソルトレイクで体験し、片言の英語ながら会話で、楽しい、嬉しい、といった感情を伝えることもできた。他にもホストパパが豪快に肉を切って料理をしてくれ、感謝の気持ちを伝えることもできた。積極的にコミュニケーションをとりたいという姿勢から、不思議と全て理解できていったのだ。
 英語ならまだよい。さかのぼること二年。小学校五年生の時、約一週間台湾の台中市にホームステイもした。英語とは違い、「?好」「謝謝」「再見」の「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」の三つの言葉と、簡単な自己紹介。たったこれだけの知識で台湾へ渡った。
 台湾での生活は、何を言われているか分からず、自分なりの笑顔と、ジェスチャー、表情、口調などから、自己解釈するしかなかった。ホストママは、小学校の先生であり、食事の度に、漢字で料理や果物の名前を書いて、写真を撮ってくれた。また、私が事前に手紙で伝えておいた、タピオカドリンクやスイカ、マンゴー、ドラゴンフルーツなど食べたいものを全て食べさせてくれた。やりたいと言っていた工作体験や夜市にも連れて行ってくれた。ホームシックを感じるとホストママは優しく肩を抱きしめてくれた。中国語は全く分からなかったのだが、不思議と家族と一緒にいると、何を伝えようとしているのか、何を思っているのか、分かった気がしたのだ。いずれのホームステイでも、私は一切の辞書や、翻訳機、スマートフォンなどの言葉に関する物は、使わなかった。使おうとさえ思わなかった。
 現在、家電量販店に行くと、たくさんの翻訳機が並び、スマートフォンアプリを駆使すれば、瞬時に翻訳をすることができる。便利ではあるが、その機械に頼ってしまうことで、本来人がもっている、相手を知ろうとする気持ち、理解してほしいと願う気持ちを奪ってしまい、コミュニケーションの力さえ低下させてしまうのではないだろうか。コミュニケーション能力を高める方法はないのだろうか。
 ある日、新聞を読んでいると、「イエナプランの実践の現場から」という記事に目が止まった。名古屋市では、コミュニケーション能力を高めようとする取り組みが行われている。名古屋市の教員がオランダ研修で視察した先進教育イエナプランでは、子どもたちの「問い」を出発点とした自発的な探究学習に重きが置かれている、とあった。実際、これまでに私たちが受けてきた教育は受動的であった。この授業を改革するためには、教師の人数を増やし、予算が必要となる。兄はドイツに約一年間留学をしていた。オランダと同じように、ドイツでも友だち同士で話し合ったり、議論したりするなど、自ら学びたいという意欲的な姿勢に驚かされたそうだ。講義的な授業ではなく、自主的に学ぶため、授業で居眠りする生徒はいなかったそうだ。
 私は、将来教師になりたいと考えている。自発的に学ぶという姿勢が、豊かなコミュニケーション能力を育むきっかけになるだろうと私は思う。教師の話を聞くだけでなく、子ども同士で話し合い、討論し合う機会が増えれば、必然的にコミュニケーション能力の向上につながるであろう。
 コミュニケーションについて、兄は次のようにも話をしていた。ドイツ語の補習授業で一緒に学んでいた友だちについてである。彼女は、シリアからの難民として、ドイツに渡ってきた。兄が言うには、彼女は生きるためにドイツ語を習得しなければならなかったのに対し、兄は習得してもしなくても、生活に困ることはなかった。だから、彼女に比べて習得のスピードが遅かったのではないか、と兄は言っていた。自分からコミュニケーションをとりたい、自ら知りたい、学びたい、と思うことが人とのつながりを深め、コミュニケーション能力の向上の第一歩となるのではないか。
 五月一日。平成から令和となった。元号が変わり、「新時代」の幕開けとなったのだ。「新時代」となって、人類の叡智を結集した機械や道具が次々と生まれている。これまで人の手で行ってきた買い物の際のセルフレジや、飲食店の受付、自動運転など、AIによって人間の暮らしをより豊かに、より便利にしている。しかし、豊かさや便利さをもつ機械にとって代わるように、人同士がコミュニケーションをとる機会が減った。どんなにAIが発展しようとも、人と人とのつながりは失ってはならない。機械には理解できない、相手の気持ちや感情は、人にしか理解できないこともある。話をするだけでなく、人と人が手をつなぎ、肩を取り合い、人の温かさを感じることは機械では不可能なのだ。
 新しい時代となっても、互いを尊重し合い、互いの良さを分かり合うためには、AIの発展に負けないような人間のコミュニケーション能力も比例して、相互関係を築いていきたいものだ。
 東京二〇二〇は目前に迫っている。外国人と多く関わりを持つであろう。外国人に積極的に話しかけてみたい。AIにはできない「おもてなし」の精神を、十二分に発揮してみたい。
「Was denkst du uber “die neue Ara”?」

~あなたは新時代についてどう思いますか~」
 さあ、精一杯の身振り、手振り、表情で、日本の良さを、自分の力で、伝えていく「新時代」の幕開けだ。



佳作 「AI時代によるビジネスへの影響」 佐屋高等学校2年 山本 紗彩


 私達はいずれ人工知能に仕事を奪われるのではないか。
 この議論は平成時代になり、科学の飛躍的な発展とともに世界中で囁かれるようになった問題である。AI等のテクノロジーが発達し、企業の生産も効率よくなった。企業側も社員の人件費を払うより、一度導入すれば半永久的に使えてミスもしないAIを導入することだろう。では、私達は今後AIとどのように向き合っていけば良いのか。私は私達が生きていく為には人間にしかできない価値を身に着ける必要があると考えている。
 まず初めに、AIによってテクノロジー分野の雇用が減るという懸念には根拠がない。というのも、人間と機械の知能を併用した方が仕事の効率は上がるのである。
 現在、AIは多くの場合、人間が行うには費用がかかりすぎるか、手間のかかる価値の低い業務に利用されている。例えば、スーパーなどのセルフレジや工場のライン作業である。AIはデータや数字を使う仕事や文字入力、資料整理等の単純な定型業務を得意としている。これらは人が行うよりもAIが行った方がオペレーション上のミスも少なく、全て人工知能が賄うことが出来るからだ。
 そして、利用ケースを絞り込むほど、良い成果を得られるのだ。AIに特定の仕事をさせるには、大量のトレーニングデータを学習させる必要がある。一部の販売店はトレーニングの準備のための解決方法を提示しているが、ほとんどのAI投資案件では導入前に、追加的な調整やデータが必要になるだろう。そして、AIを正しく利用する為に必要な時間と労力、データ等を考えれば、作業を全てAIがこなしていくことが可能になるのは、まだ遠い未来のことだろう。実際にAIを用いてビジネスで成功を収めている企業は、人工知能の活用事例を絞り込んでおり、AIは限られた領域のスペシャリストとして使用されているのだ。企業がどのようにAIを導入し実装するかによって、その企業が将来成功するかが決まるだろう。
 今の世の中、時代の流れがとても早くなっている。例を挙げるなら数年前まで誰もが使っていた、ガラパゴス携帯である。とてもコンパクトで、会社用やプライベート用、スペアなど、何台もの携帯を使い分けていた人もいるだろう。それが現在では、私も含めスマートフォンを使っている人が大半を占めているのだ。そして未だにガラパゴス携帯を使っている人を、「時代遅れ」「古臭い」と嘲笑する者達がいるのである。現在の小学生は、ガラパゴス携帯が何なのかも分からないのである。
 知らない間に時代や流行、考え方の概念等が変わって、今までのやり方が通用しないということが増えている。
 時代の流れは恐ろしいと感じると同時に、いかにその流れに取り残されないかが大切になってくるだろう。それは働き方でも同じことがいえるのだ。
 今後、十年以内に職業という壁が無くなり、誰しもが自由に職業間を行き来出来る事がスタンダードになるという。実際に歌手をやりながら看護師に、お笑い芸人をやりながら医者をやっている人もいるのだ。一つの職業に縛られず、複数の仕事をこなす人達が当たり前の世の中になるのだ。
 また、「正規」「非正規」「パート、アルバイト」という区別もなくなり、人はどんどん流動的に、転職が当たり前になる、パラダイムシフトが発生するようになる。それにより企業も国も、今までのように私達の生活を保証することが難しくなる。私達国民一人一人が自分の生活に責任を取る必要がある。
 今までは「会社や組織に属する時代」だったのが新時代になると、個人の魅力や能力が価値になる
「個の時代」になるのである。
 そのため、一つの仕事を通してしか「自分の価値」を提供出来ない人は、かなりのリスクを負うことになるのだ。
 平成から令和になり、これからますます科学は発展し、人工知能はより発達していくことだろう。それにより私達の生活はこれまで以上に便利なものになっていくだろう。
 しかし、仕事を奪われる未来が来ることも確実だと私は考えている。だが、私は人工知能に仕事を奪われるのはむしろ、好ましい変化だと思っている。AIが単純な価値の低い仕事を補うことで、私達がより高く価値があり、やりがいのある仕事に時間を割けるからである。AIは何でも出来ると思いがちだが、ゼロから何かを生み出したり、人の気持ちを察して寄り添ったり、励ましたりする、きめ細やかなコミュニケーション能力は私達人間には勝てないのだ。だから人間は、その人類特有の
「相手に共感出来る能力」を磨き続けることが大切だ。
 これからは、どの「仕事」をするかというよりも何を学び、どう働きかけ社会に貢献していくかを考えていかなくてはならない。
 いずれ壊滅的な変化に直面することが避けられないのであれば、現在のAI技術に親しみ、来るであろうAI新時代に向けて備えるべきだ。



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