学生時代 岡本忠之 (昭36年卒)
筆者、岡本 忠之は、昭和36年卒業でありました。
夏の季節をあっという間に過ぎ、貴会の予定された創立120周年への参加はコロナ禍により、止むを得ず参加もできずに書類を整理していて至極残念に思いまして、筆をとる次第です。役員の後藤務さんは同期の人であったろうと思い浮かべます。
1958年(S33年)は高校入学の年であり、クラブ活動は念願であった剣道部に入部し剣客の意気込みで、登校中に足配り、呼吸法を実践しながらの松並木通学でした。
父が若い頃、武芸を嗜み有段者でありましたので、私は千葉周作の北辰一刀流を学んでいこうと意気軒昂でした。上級生が喫煙等でけん責処分を受け、下級生がすべてを受け持ち、他校との試合で戦績の好い者を主将とすることで、いきなり大役を仰せつかった。
稽古着を洗って干すについて、され知恵を出し合い、体育館の天井に物理の勉強の応用として、滑車をいっぱい取り付けるなど、斬新な部活運営をした。打ち込み用の人形を誂えたりするのにも全員参加で取組みました。
在学中には、1959年(S34年)9月26日伊勢湾台風の大災害がありました。同窓生も被害を受け、暫くは休校でありました。自衛隊の人たち(長野連隊)が高校のグランドに駐屯され、救援活動と日常の生活を隊としてのエリア内で存在していました。
高校生として、何ができるか等を伺ったりして、救援活動の現場の窮状を、地図を開いて説明いただきました。私は、主将として取り組む姿勢を示しました。「義を見てせざるは勇なきなり」と部員に説いて、意思を固めました。生徒会の動きも聞こえ始めましたが、剣道部のメンバーであれば、塊として掌握できると考え、自衛隊の隊長に直談判して、トラックに乗車できるようにお願いし、作業着は剣道着を着用として、長靴を履き乗り込みました。一級河川の木曽、長良、揖斐川が濃尾平野を通って伊勢湾に注いでおり、木曽川水系として合流する場所があり、2004年4月に愛西市として市制を引かれており、海部郡としてあった、佐屋町、立田村、蟹江町、飛鳥村、弥富町等を想い出しきれないが、高校に通学し切れない同窓生のために、一刻も早く通学できるようにとの思いで川の決壊箇所への土嚢補強に出かけました。スコップ、一輪車での運搬等は、初めての作業であり、班を作り競争原理がはいり活気あるものでした。新聞社も「高校生立ち上がる」の紙面は、活動している存在感を表現してくれるものとして受け止めていました。
生徒会も立ち上がり、役員の一部とは、その後、無二の親友として称え合いました。
後世に遺す記事としては、私はその頃、宮川町に住んでおり、台風情報をラジオで聞きながら、雨、風の強さが未曾の強さであることを聴きました。旧市内の周辺は幾つもの河川があり、全体的には堤防で匿われており、浸水等はなかったのですが、風の強さは、雨戸を補強することは勿論、むしろ部屋の内側からの補強が大事であり、食卓を立てかけるなどのツッパリ家具に布団で覆うなどして拭き破られることに懸命でした。松並木の松が真ん中の高さで、折られる音を恐ろしく聞いての籠城生活を暫し過ごしました。愛知県濃尾西部地方にある津島の死者・行方不明は少なく、堤防の備えが届いていたことを知る。
救援活動による力仕事、機敏に動くことの体験を積んだ剣道部員は逞しくなり、他校との試合では学年からしても負けてばかりを経験していましたが、次第に三本勝負の内の一本は勝つなどして、勝者となるものも生じました。下級生が二年生を破るなどもあり、北辰一刀流の極意と覚える技を示すことは殊の外、嬉しいものでした。国立名古屋大学に現役で合格した後輩は剣道を続けてくれ、剣道では名も知れぬ学校で相当に激しい稽古をしてきたことを誉められたことを伝えられ、指導者としては安堵したものです。しかし、しごきとしての悪評を持たれていた私には、卒業後に70歳になった折り、私の住まいである神奈川県湯河原町まで訪ねてくれて、旧交を温めた後、腕相撲の挑戦を受け、しごかれたままのお返しをしたいと、彼はその後も津島に残っていて、剣道修行に勤しみ、7段まで昇格し地元で指導者となっていることを教えてくれた。故郷のない私にはうらやましい限りでした。
1960年(S36年)には「創立60周年式典」記念行事に当たり、剣道部と柔道部の面々は外周警備の役をたまわっており、不審火の通報があり、バケツリレーを用意し、火がチョロチョロ見えるところまで、急いで駆け付けました。バケツリレーによる防火に努めましたが、屋根が燃えている部分は弱くて太腿までズボット下に落ちそうになり、事件現場を遠巻きにして消火に当たりました。ボヤとして処理されたのだと思いますが、記念式典を迎えると想い出すものです。60周年記念式典が催されたことは確かでありますが、前年に実施されたかは不確かですが、1900年(M33年)2月愛知県立第三中学校として創設されたことは調べての計算です。入学より多くの体験をいたしました。
私は、進路指導の時、伊勢湾台風における救援活動、剣道部での主将ての活動についてを取り上げていただき、当時、日本福祉大学の創設学風に魅力を感ずる新設の大学であることを勧めていただきましたこと、ご指導いただきましたこと感謝申し上げます。
三稜会会報を読ませていただき、「令和4年 大学合格者状況」に7名の方が日本福祉大学に進学されていることを見つけ大変嬉しく思いました。
私は、日本福祉大学を卒業後、1964年(昭和39年度卒)神奈川県職員採用試験において、福祉職専攻て公開公募をするという先進的な取組みに挑戦し合格し採用されました。
日本福祉大学の学生は、全国からの応募があり、OBとして各地域卒業者を受け入れる体制が整っているものと思います。神奈川においても関東地域の中心となり、講演会、交流会を年に二回は現役学生との懇親会を設けております。
三稜会会報を読ませていただく中で、中高一貫カリキュラムが組まれるとのこと。進取の改革は素晴らしいことと思います。津島高等学校を卒業し、名古屋にある大学に進学したところ、図書館に行けば高校生がいっぱい集まり学習・研究をしている姿を拝見し、私にとって刺激の少なかったことを痛感しました。
濃尾平野の真っただ中で、下の広い敷地でラグビー場、野球場(サッカー場)を持っている学校、上のグランドも広く、昼休みにフォークダンスも大きな円を作り踊っているなどは、私にとっては、苦手な時間帯であったことを思い出します。トコトン硬派を張っていた懐かしいものでありますが、新しい学生の登場を応援します。
岡本忠之 氏(昭36年卒) 2022年12月18日寄稿