◇テーマ 『変化』
◇応募総数 721点
◇入賞作 8点
<最優秀賞> 1点
清林館高校 1年 岩田 奈々 「78億7500万通りの正義」
<優秀賞> 1点
津島高校 1年 綿谷 奈那 「「想像力」と「創造力」」
<佳作> 5点
美和高校 2年 篠原 光太郎 「変化を結びつける」
津島北高校 2年 古江 昴真 「二種の変化を両立せよ」
津島北高校 2年 結城 遥香 「性認識の変化とこれから」
五条高校 2年 横井 大地 「人間と地球の変化」
佐屋高校 1年 横井 麻衣 「今を生きるために」
<奨励賞> 1点
稲沢東高校 1年 大島 翔樹 「変化」
※学年は応募時点となっております。
多数のご応募ありがとうございました。
最優秀賞「78億7500万通りの正義」 清林館高校1年 岩田 奈々
近頃の世の中は、多様性や個性を認め合い、差別や偏見をなくす社会へと変化している。誰もが生きやすい世の中を目指し、その為に一人一人の意識が高まってきているように感じる。しかし、時にその意識が行き過ぎてしまう瞬間があるのではないだろうか。誰もが生きやすくするための言動のはずが、誰かを生きづらくしていないだろうか。 例えば、「マイノリティ」に関してだ。マイノリティとは、「少ないこと」や「少数派」という意味で、社会的に少数派の人々を指す意味で使われることが多い。私は、妹から中学校で起きたとある出来事を聞いた時、「これはマイノリティ問題なのではないか」と思った。妹によると、学校の授業で班ごとに分かれてクラスの人に「本は好きか」というアンケートを実施した際に、クラスのほとんど全員が「はい」と答える中で、一人だけ「いいえ」と答えた生徒がいたそうだ。仮にその生徒をAとする。すると、班の中の一人の生徒が、「一人だけであることをクラスのみんなの前で発表するとAを省いているみたいになるからそのことを発表するのは避けよう」と言い出した。その結果、妹の班の発表では、「大半の人が『はい』と答えた」と表現を濁して発表することになった。妹はこの発言に少し疑問を持ったそうだ。この場合、本当に明言を避ける必要があったのだろうか。この発言は、「いいえ」と答えた人に対して考慮をしての結論だったと言えばそれまでだが、その背景には「少数派は可哀想であり、多数派が守っていかなければならない」という思いが社会に根付いていることを示しているように思える。アンケートの結果として、「いいえ」と答えた人が一人だったのは、紛れもない事実である。これは不都合なことでもなんでもないはずだ。それなのに私たちは何故か少数派に対して配慮の必要性を感じてしまう。この小さな教室で起きたことは、社会でもよく目にする風潮のように感じる。もちろん、少数派の意見に耳を傾け、多数派と少数派のどちらも対等な立場でいられることは大切だが、少数派を特別視しすぎてしまうと逆差別に当たるのではないだろうか。ある一つの点から見たら多数派に分類されても、他の観点から見れば少数派だったりする。それくらい、少数派は当たり前にいる存在なのである。世の中は少数派に対して何かと敏感になっているが、多数派がいれば少数派もいるのは当然で、そこまで特別視される存在ではないと思う。 そして、マイノリティがピックアップされているのと同じくらいよく耳にするのはジェンダー平等である。家事は女性だけがするというイメージは払拭すべきだとか、男の子は車や戦隊モノのおもちゃを持ち、女の子は着せ替え人形やおままごとのおもちゃを持つという固定観念は古いとする考え方になってきている。しかし、度を越したジェンダー平等は、かえって平等性をなくしてしまうと思う。確かに、男女は平等に機会を与えられるべきだと思うが、男女が全く同じことができれば良いというのは話が別になってくる。最近では、全く同じことをするということに重きが置かれてしまいがちで、ジェンダー平等の本質が見失われているような気がする。私たちは、そもそも別のものとして生まれてきたのだから、同じラインに立つことはできても同じものになることはできない。そして、私たちが目指すところも同じラインに立つことであって、同じものになることではない。だから、必ずしも男女が同じことをして、同じように過ごさなければならないということはないと思う。それぞれ違う立場だとしても、対等な立場から物事に取り組めることの方がむしろ大事なのではないだろうか。 このように、マイノリティやジェンダーに対する社会の関心が高まっていく一方で、これらの話題に対して理解が乏しい人もいる。ネット上で、理解が乏しいと捉えられるような発言をすると徹底的に叩かれるということは目に見えている。しかし、そこで人格否定までしてしまうと、それはそれで多様性を否定することになりかねない。理解のない発言と言っても、当事者を中傷し、蔑むような発言は許されるべきではない。だが、感覚の違いや育った環境によって理解ができない、なかなか受け入れることができない人もいるということも事実である。それならば、それもまた一つの考え方と言えるはずだ。理解がないからと言って人を傷つけていい理由にはならないと私は思う。理解があることが必ずしも正義とは言い切れない。その人にとっての正義は人それぞれであり、自分の正義が絶対であると思い込むのはとても危険なことである。YESかNOではっきりと線引きしなくても、少しくらいわからないと言える人がいてもいいのではないかと思う。 ここまで世の中がマイノリティやジェンダーに対して敏感になったということは、裏を返せば多様性や個性の尊重といった話題に対する意識が変化してきたということである。しかし、私たちは「わかったつもり」になっているこの現状に満足してはいけない。マイノリティや差別に苦しむ人を救った気になって優越感に浸り、さも彼らの気持ちの代弁者かのように振る舞い、口先だけで彼らを庇っているうちはこの世の中は変わらない。そもそも、私たちは所詮他人同士なのだから、当事者でない限りその人の気持ちはその人にしかわからない。だからといって相手の背景を知らないまま、自分の勝手な解釈や主観を押し付け、自分と違う考えを無理に肯定するのではなく、互いを尊重し、「自分の価値観の引き出しに新しいアイテムが増えたな。」という程度に捉えて付き合っていけばよいのだ。わからない時はわからないままでいい。わざわざ踏み込む必要はない。そんな時は、自分の引き出しの隅にそっとしまっておくのだ。世の中には色々な考え方があって、そのそれぞれがたくさんある中の一つの考えに過ぎない。そこで大切になってくるのは、異質な他者の存在を認め、認めるまでで留めておくことかもしれない。「私とは違う。だけどそういう考え方もあるんだ。」と気軽に受け取る心だ。私たちは、そのような人間に「変化」していく必要があるのではないだろうか。
優秀賞 「「想像力」と「創造力」」 津島高校1年 綿谷 奈那
今、この瞬間も、何かが変化している。物質や環境、ルールに価値観。そして、私たち人間。人間は、周りの環境に対応するために様々な変化を遂げてきた。一人ひとりの些細なことから、人類史に残るような大きなことまで、長期にわたって繰り返し変化してきたのだ。では、今の私たちがさらなる変化を遂げるためには何が必要であろうか。それは「想像力」と「創造力」を鍛えることだと私は思う。 先日テレビで、メタバースについて取り上げられているのを見た。メタバースとは、離れた場所にいる人と仮想空間で会議をしたり、スポーツやゲームを楽しんだりできるサービスのことだ。自分のアバターを仮想空間に送り込み、まるでその場にいるかのような体験ができるそうだ。私はそれを聞いて、技術の進歩を感じた。近年、こういった技術が急速に発達している。中でもAI技術が発展を続けていて、私たちの身の回りに取り入れられるようになっている。そもそもAIとは何なのか。AIは人工知能の略称で、人間が行う知的な作業をコンピュータで模倣したソフトウェア、もしくはシステムのことを指すそうだ。難しく聞こえるが、私たちの回りにもAIを搭載した製品やサービスは沢山ある。例えば、私たちが日常的に使っているスマートフォン。音声認識機能や翻訳機能、画像による人物や物の特定機能など、人工知能が多く搭載されている。他にも、自動車やロボット、家庭用電気機械器具など、きりがないほど挙げられる。第三次AIブームと呼ばれている今、技術はますます発展しているのだ。そして、私たちはそれらの技術を多用している。私たちの暮らしはAIによって成り立っていると言っても過言ではないだろう。 しかし、便利で暮らしやすくなる一方で、問題点もある。中でも私が一番危惧しているのは、AIに人間の仕事が奪われるという点だ。AIの導入により、これまで人間が行っていた作業が次々に機械化されることが予測できる。人工知能が人間を超えれば活用分野が増え、人間は仕事が無くなってしまう。失業者や、就職活動が上手く行かない若者が増えるなど、社会全体に影響を及ぼすだろう。これは、私たち高校生にとって、決して無縁な話ではない。約五年後には、就職活動が始まる。単純作業や計算が多い仕事は機械が行い、レジ打ちなどは店の無人化により無くなると考えられる。では、無くならない職業は何か。私は二通りあると考える。 一通り目は、人間が必要となる職業だ。機械の力のみでは不十分になるような仕事は無くならないであろう。例えば、カウンセラーや教師などの人の心や成長に寄り添う仕事であれば、機械を使うことはあっても、人間が行う必要性がある。相手の顔色をうかがいながら言葉選びをし、話題を転換する、といった相手の心のひだにふれることはAIには出来ないからだ。また、デザイナーや職人など、何かを創り出す仕事であれば、作る人により作品に違いが生まれるため、人間が作った物のほうが個性や面白みがある。そのため、これらの仕事が将来的に無くなる可能性は低いと考えられる。 二通り目は、技術を開発する職業だ。技術を開発、改良などをする側にまわることで、機械と仕事が被る事が無い。そのうえ、世界規模でさらなる新しい技術の開発が必要とされているため、AIの発展にともない、仕事は減るどころか増えていくと予想される。 今挙げた無くならないと考えられる二通りの職業には、共通していることがある。それは、どちらも「想像力」と「創造力」を必要とするという点だ。まず、「想像」とは何か。岩波国語辞典で引いたところ、想像とは、実際に知覚に与えられていない物事を、心の中に思い浮かべること、とあった。次に、「創造」と引くと、人まねではなく、新しいものを自分から作り出すこと、とあった。これらの力は、AIには無い人間の大きな強みだと思う。AIが人間を助け、AIに出来ない想像と創造を人間が行う。これが最も良いAIとの付き合い方なのではないかと思う。そのためにはやはり、想像力と創造力が欠かせないのだ。 ここで、AIの発展は著しく、いずれ想像力と創造力を身に付けたAIが開発されたらどうするのか、という意見もあるだろう。その時、人間は全ての仕事をAIに任せるべきだろうか。確かに、AIを活用した方が効率的である上に、便利で楽なため、メリットが大きいように思う。しかし、全てをAIに任せてしまうと、人間は退化するだろう。力仕事はAIがやってくれて、身の回りの整頓もAIが行い、ご飯もAIが作ってくれる。そんな生活を送ったとすれば、人間は自ら動くことをしなくなり、考えなくなるだろう。約七百万年前から進化し続けてきた人類が、退化することになるのだ。実際に、過去にNHKで放送された子ども科学電話相談で、坂本真樹教授は、使い方次第では人間の退化が進むかもしれないと述べていた。人間が退化して考えることをやめれば、人間の強みである想像力と創造力が無くなってしまう。そう考えると、全てにAIを使うことはやめるべきであろう。 技術が進歩し、AIが当たり前になっている現代の社会で求められているのは、自分で問題を探し、解決策を考える力だろう。この力を養うために、様々なものが従来の形式から新しい形式に変わってきている。中でも私たち高校生にとって一番身近なのは、今年の一月から大学入試センター試験に変わって導入された、大学入学共通テストだ。これまでとは違い、思考力、判断力、表現力が問われる問題や記述問題が増えた。社会に出たときに必要になる力としてテストに取り入れられたのだろう。もうすでに、学生である私たちにも、求められ始めているのだ。 いかに「想像力」、そして「創造力」を鍛えるか。これが今後人間がさらなる変化を遂げるための鍵となっていくことに、間違いないようだ。
佳作 「変化を結びつける」 美和高校2年 篠原 光太郎
私たちは常に「変化」を軸に生活している。この世のあらゆるものはそれまでの枠組みに収まらず、周囲の環境によって肉付けされ、その性質を変え続けている。 人は、ものに対して「変化」をさせて、新たな付加価値をつけている。ものに付加価値をつけることで、人の生活がより便利に、そして豊かになる理想の世界を創造するべく、ものやサービスに対しての「変化」を続けてきた。 では、人がものに対する「変化」に付加価値をつける場合、どのようにすべきなのか。 私が注目したいのは、「変化」を結びつけることだ。これは、現在進行形で「変化」している事柄同士を結合させて、互いに相乗効果をもたらし、付加価値をつけていくというものだ。人がものやサービスに対してひとりよがりの「変化」を続けてしまうと、その「変化」に対し急な隔たりが発生してしまうことや、自然環境にとって良くない影響をもたらすことが多いためだ。 その「変化」の例として、日本の「英語教育の変化」が挙げられる。世界共通語で、約十五億人の人たちから話されている英語は、多くの国の教育機関で採用され、現代では英語を話せることが当たり前な世界となっている。 日本の英語教育では、英語の読み書きを主とする指導が行われており、コミュニケーション能力を育む教育は重視されていなかった。英語での意思疎通や正しい発音などを教えられる教員が不足しており、高校・大学の入試でそれらの能力が必要なかったためである。 その結果、日本人の英語を勉強する本来の目的が、外国の人と異文化交流をするためのツールとして学ぶということではなく、高校・大学への受験のために学ぶようになった。これにより、日本人の英語を学ぶ意識が低下し、グローバル化の進展の遅れを引き起こす要因と化していた。 その要因を解決するべく、日本では二〇二〇年より、英語の教育改革が始まった。この改革では、英語に慣れることを目的とした「外国語活動」の授業が小学3年生から始まることとなり、小学五年生からは、従来の中学一年生が習っていた内容が取り入れられた「英語」の授業が開始された。 二〇二一年からは、中学校・高校で英単語、熟語などの語彙の増加とともに、英会話を中心とした授業が実施されることとなった。具体的には、教員がオールイングリッシュで生徒を指導することで、生徒の英語を聞く力、発言する力を養う授業を行う。また、ALT(補助英語教師)とのコミュニティケーションを促進させて、身近に外国人との異文化交流を可能にし、生徒の国際理解を深めるといった授業が展開される。 こうした「英語教育の変化」においてこのような意見がある。「二〇二〇年からの教育改革では、小学三年生より英語学習が必修化される。だがその分、小学校では、小学校教諭の負担の肥大化や、授業内容の難化に伴い、英語の授業についていけなくなる児童が増加する可能性が見込まれる。今まで英語を専門としてこなかった小学校教諭にとって、児童に英語を授業として指導するのは非常に困難であるし、従来よりも前倒しの授業による難化の傾向が、児童の英語への関心がより低下する事態を引き起こしてしまうためだ。 また、二〇二〇年より始まったコロナ禍において、全国の中学・高校でALTとのコミュニティ活動を促進できるとは考えにくい。従来のALTの割合は、一人につきおおよそ二校以上の学校で指導を行わなければならず、深刻な教員不足に陥っていた。現在では、約二一〇〇人の新規のALTが渡航の中断を余儀なくされている。こうした状況下で、ALTとの英会話の演習や異文化交流を促すのは現実的に厳しいはずだ。 したがって、これらのような課題を解決しなければ、この『英語教育の変化』で付加価値がつくことはないだろう。」というものだ。 確かに、これらの課題を残したままでは、「英語教育の変化」の成果を上げることはできない。この一人よがりの「変化」の順路をたどる「英語教育の変化」は、教育現場への圧迫や必要な人材不足などの多くの課題によって、いつ崩れてしまってもおかしくない。 この「英語教育の変化」にとって「変化」を結びつけることは必要になる。 その一例が「ICT教育の変化」との結びつきだ。「ICT教育」は、日本では急速に広がりを見せている。文部科学省の調べによると、全国の約九十パーセントの公立小学校・中学校でタブレット端末の普及が進んでおり(二〇二〇年)、それらの媒体を用いた教科書のデジタル化や、グループワークの効率化などの付加価値をつけてきた。 この現在加速している「ICT教育の変化」と、様々な問題を抱えて付加価値を生みだしづらい状況にある「英語教育の変化」を結びつけることで、互いに相乗効果を生み出すことができる。 例えば、英語の授業でスマートフォン・タブレット端末などの電子機器のオンライン通話機能を使って、海外で暮らす外国人教師や同年代の学生とのコミュニケーション活動を行う。そうすることで、生徒に英会話の基礎を学べる機会を与え、異文化交流をリアルタイムで行うことができる。世界中がパンデミック騒動になった現代でも、こうしたツールを用いることで、生徒の英語力の向上につなげることができる。 また、「ICT教育の変化」によって、AI技術をとりいれた英語授業を行うこともできる。AIに英語に関する適切なプログラムを入れることで、生徒の授業や試験の内容を構成したり、AIと生徒が同時に英会話をすることができるシステムを作って、生徒の発音の練習や評価などを円滑にできるようにする。こうすることで、教員の業務負担も減らすことができ、また生徒にあったAIの授業構成によって、児童や生徒の英語への関心の低下を抑えることを可能にする。 このように、「英語教育の変化」と「ICT教育の変化」を結びつけることで、先ほどの意見で指摘された課題点を解決することができる。そして同時に、ICT教育に大きな広がりを見せられるような相乗効果を見出すことができるのだ。 この「変化」を結びつける行動が、互いの不足している部分を補うことや、その「変化」を円滑に進行させることを可能にする。これは、さまざまな問題が存在する現代社会にとって、とても重要な意識だ。ひとりよがりな「変化」の行動が、私たちにとって不利益を生じさせ、その問題を発展させる。これからの「変化」は、このような独断専行な「変化」の意識で行うのではなく、互いに問題を解決し、付加価値をつけていく「変化」を結びつける意識を重視し、多様な視野を持った上で環境をよりよく「変化」させることが大切だ。
佳作 「二種の変化を両立せよ」 津島北高校2年 古江 昴真
「変化」とは、一見すると一つのもののように感じられる。だが私は、「変化」は二種類に分けられると思う。絶え間なく流れる小川のような、目に見える「可視の変化」と、たおやかに流れていく目に見えない「不可視の変化」。このふたつの「変化」を両立することで初めて、人は「変化」を実感するのだと思う。 「可視の変化」とは文字通り、別段気に留めなくとも目の前で変わっていく者たちのことを指す。例を挙げるならば、人の変化がわかりやすいと思う。身長、体重、髪の長さ、肌のしわ。不意にタンスの角に小指をぶつけたときにできた傷などが当てはまる。一、二年顔を合わせていなかった友と再会した時の衝撃は、終生忘れることができないだろう。このように、人間をはじめとした動植物は、齢を重ねることにより成長という名の「可視の変化」をしていることがわかる。 しかし、目に見えるものであっても、その変化に気づけない時や、気づいてもらえない時が、多少なりとも存在する。私たち現代人は衣服という素晴らしい発明品を身にまとっている。故にそれらによって隠された部分の傷などには、気づきにくいし気づかれにくい。女性の細かな変化には気づいてあげないと、どうやら機嫌を損ねてしまうらしい。生活する上で、小さい変化にも敏感になっておく必要があると思う。 他にも、長い目で見れば四季の変化がこれに当てはまると思う。季節をひとつずつまとまった概念としてとらえる固定観念が世間には広まっているが、私はそうは思わない。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は白雪。こうして並べてみると、案外季節は目に見える「可視の変化」で溢れていることがわかる。我が国は諸外国と比較してみても、四季の変化がいい意味で目に付きやすいと思う。外国人観光客からも時折その美しさについての賞賛のコメントがあるようだ。身近で美麗に変化していく存在があることに、感激しつつ感謝したいと思う。 ここまで「可視の変化」について例を挙げて掘り下げてきたが、これらはあくまで一例に過ぎない。私は例に挙げたものに趣があると思う。だがそれは人それぞれであり、環境も変われば意見も変わってくると思う。十人十色という言葉があるように、「変化」に対する価値観も人それぞれだ。 だが、「可視の変化」だけを見て変化は実感できない。人の目はガラス玉ではない。本当に大切なものは、目に見えない「不可視の変化」なのだ。これが人間にとって非常に難儀する存在であり、今後の人類社会の発展のために解決しなければならない課題でもある。 先程「可視の変化」において人を例に挙げたので、ここでも人を例に考えてみる。すると、案の定そこには「不可視の変化」が何食わぬ顔でそこに鎮座している。「感情」である。誰かを愛すること、失敗して悔やむこと、悲しむこと。心の底から楽しむこと、そして湧き上がる憎悪の感情。人の感情とは、一見するだけでは計り知れないほどの多くの種類が渦を巻いている。人の「感情」こそ、「不可視の変化」を代表するものであると思う。 ところで、人の感情は四季以上に変化することから、感情は「可視の変化」なのではないかと疑問に思われるかもしれない。確かに、人は喜怒哀楽を表に出しやすい。芸人のコントやネタを見れば笑うし、馬鹿にされたら憤慨する。だが必ずしもすべての感情が外界に晒されるものだと思うのならば、それは大きな勘違いだ。良い例が、「愛想笑い」や「嘘泣きだ。」前者は、自分にとって都合が悪くなった時、本心を隠蔽しようとする時、人は思わずぎこちない笑顔を浮かべてしまう。後者は人の優しさに付け込んで、あたかも自分が悪くないように思わせてしまう。これらは自分も他人も欺く偽りの感情だ。あの時笑っていた人は、本当に心からの笑顔を浮かべていたのだろうか。本心から湧き出た天真爛漫な笑顔と、その場の雰囲気を崩さないよう無理にひねり出した笑顔は、残念ながら見分けがつきにくい。あの日手を差し伸べたいたいけな彼女、彼は貴方を騙すための偽りの涙を流していたのかもしれない。人は必ずしも、本心を露出して生きているわけではないのだ。 「感情」というものは、良くも悪くも人間に密接にかかわってくるもので、到底逃れることができない「鎖」のようなものだと思う。隣り合わせで共存しているからこそ、人は「変化」しやすいのだろう。「可視の変化」をそのまま受け止めてしまい、感情という「不可視の変化」へとつなげてしまう。これでは二つの変化を両立できているとは言えない。世の中は毎日のように「変化」していくもので、そのすべてを受け入れて勘定に直接接続させてしまうと、人からすればとてつもないリスクとなってしまう。張りつめすぎた糸がすぐに切れてしまうように、ある日ふと心が壊れてしまうのだ。 現在、世界は新型コロナウイルスによって毒されており、「可視の変化」と「不可視の変化」がおぞましいほどにうごめいている。この状況下で自己や周りを「変える」ためには、やはり二種の変化の両立が必要だと思う。「周りがこうしているから」という集団心理にとらわれ、自分を押し殺してしまうと、「変化」には行きつかない。新型コロナウイルスが流行し始めた時、トイレットペーパーの買い占め騒動があったことは記憶に新しい。新型コロナウイルスは中国が発生源だから、中国産のものはいずれ高騰するのではないか。実際は各店舗に在庫はあるのにもかかわらず、そのような事実無根な情報によって人々は踊らされたのだった。これこそ、トイレットペーパーを買い占める人々という「可視の変化」であり、その情景を視認して焦るという感情が生まれる「不可視の変化」がよく表れた事案だったと思う。 未だ世界をむしばみ続けている新型コロナウイルス。「コロナ禍」と呼ばれる社会の中を自分らしく生き抜くためには、「可視の変化」を確実に見定め、「感情」という「不可視の変化」へと良い接続をすることが大切であると、私は思う。同時に、今後の人類社会の大いなる発展を「変化」の波の中から見守っていくことにしようと思う。
佳作 「性認識の変化とこれから」 津島北高校2年 結城 遥香
性とは、どのように決まるのだろう。 人とは社会的な動物である。身一つで命を守るすべを持たない代わりに、物を駆使したり、物事を知り考えることで身を守ったり、同種族と群れを成すことでここまで発展してきた。人と人とが繋がりあって助け合うことの根幹は、人という種族の本能だろう。 性による違いも、本能から生ずるものだと考えている。男児が虫を捕まえることを好むのは男という性の「支配する」という本能をくすぐられるからだろうし、女児が着せ替えなどを好むのは「支配される」という本能に向けての気に入られる準備だろう。 本能とは渦だ。存在すると気づく前から人を飲み込んでしまう。けれど近年ではその本能に逆らうような動きが目立つようになってきた。だが、その目立ち方が私には少し間違ってきているように思う。 LGBTという言葉が使われ始めたのは、一九八〇年代のアメリカで性的マイノリティの権利を求める活動が起こったことがきっかけだ。二〇〇〇年代に入り日本でも広がるようになった。同性愛、両性愛、性同一性などの頭文字をとったその言葉は、毎日耳にするほどではないが、言葉を聞いて理解できる程度には浸透している。これは、確かな変化だと思う。 しかし、概念ばかりが有名になって、実際に受け入れられているようなところを見たことがない。人と話す場合でも、男だから、女だからと初めから決められた状態から始まる。そこに自分は同性愛者だとか、自分は性同一性だとかを挟む余地はない。 とあるLGBTの許容度に関するアンケートによれば、「異性愛者だが、同性を好きになる人がいてもいいと思う」という意見が一番多く、約半分を占めていた。そこだけを見れば価値観が変化しているように見える。 けれど、私からしてみれば机上の空論だ。自分が巻き込まれないことを前提としていまいか、あるいはもし自分にそういった好意が向けられた場合に咄嗟に拒絶しないと本当に言えるのか。このことを考えず、本当に変化と言えるだろうか。 「自分はそういった人でも受け入れます」と言うだけなら簡単だ。「そういった問題にも前向きに取り組んでいます」という姿勢を見せるだけなら楽だ。そのような人は大抵群れを成して動く上、他者から見て個人の感想はどうあれ外聞がいい。だから他の価値観が変わらないまま、事態が改善の方向へ進んでいるように見えてしまう。まるで受け入れるだけでいいと妄信しているようだが、問題は性の多様化を受け入れるだけではない。 例えば、自分の性認識が「男」であるのに自分は「女」だと言い張る者が現れたとする。もしそれが性の多様化を掲げる集団の中にいた場合、受け入れなければ彼らの存在する意味がなくなるため、当然認めるだろう。けれど、それがどれほど危険であるかは言うまでもない。 人の苦しみとは白黒はっきり分けられるほど単純なものではない。一等大きく泣いて苦しそうにするものが一番辛いとは限らず、平気そうに笑って真っすぐ立って歩けるものが一番楽でいるとは限らない。そんな中で、自分にしかわからない性の問題は想像外に複雑である。 人とは社会的な動物だ。故に群れを成す。けれど、思考することが何より発達した我々には価値観の差異が存在する。それを均すためには「群れを壊す行動」には悪という刷り込みを、「群れを活性化させる行動」には群れにいることの許可を出す。こうして「社会」が作られている。 だが現代社会において、警察機関といった分かりやすい抑止力があってなお、痴漢や強姦などの性犯罪は無くならない。それなのに他人からわからない部分を騙る人が現れないと、どうやって証明できるのだろうか。そういった意味では今のほうがまだ安全なのかもしれない。 そこで本当に必要だと思うのは、そうした性認識をする人を腫れ物扱いして、無条件に性認識を受け入れる今のような形式ではなく、違いとして一人一人がそういったものだと最初から受け入れることだと考える。 あるニュース記事で、「LGBT専用トイレ」というものを見たことがある。性認識に差がある者からすればトイレの問題は大きなものだからだろう。 けれどそれこそが一番の腫れ物扱いであり、ある意味一番差別していると言ってもいい。大抵、特別扱いされたくてそうやって生まれたわけでもないだろう。 あくまでも個性と受け入れ、特別に扱うことをなくす必要があると私は考える。しかし、これは難しいことだろう。人とは初めから本能という大きな渦の中にいる。社会による刷り込み以上に性認識とは生まれながらに持っていて、そこで男や女、その他の性認識が生まれる。 今の社会、多様化を進めてはいるが、型にはめて動くのが好きな日本ではまだまだ浸透するには厳しい部分がある。 そんな中で、本当に性認識による苦しみから解放するためには一人一人意識を変えようとすることが必要だ。既に様々な人が先立って動くことで声を上げやすい社会はできつつある。その変化に、今こそ多様な社会に意識を持つようになるべきである。
佳作 「人間と地球の変化」 五条高校2年 横井 大地
私達は「変化」の中に生きているということをこの頃強く感じます。身近な例で言えば、コロナウイルスです。コロナウイルスが猛威をふるい始めてから間もなくして、多くの変化が見られました。多くの人がマスクをつけ、不要な接触を避けるようになりました。しかし、そのどれもが、周りの「変化」に自分をゆだねてしまっているような気がします。確かに周りの変化に合わせれば、一定の効果を得られるかもしれないし、周りからの不要な反感を買うこともないかもしれません。しかし、私にはこのように、自分の意志が伴わない「変化」は危険であるように思えます。 例えば、科学技術の進歩に関してはどうでしょうか。科学技術が最近になって大きく成長し始め、私達の生活が格段に便利になったのは明らかで、これは良い「変化」だと思います。しかし、その反面で、科学技術が大きな問題を引き起こしてしまっているのも、また明らかです。特に最近問題になっている地球温暖化にこの科学技術の進歩が深く関わっているのは、言うまでもありません。温室効果ガスを大量に排出し、温室効果ガスが増え過ぎてしまい、地球温暖化を加速させてしまっています。こうした背景があるにも関わらず、私達は科学技術の進歩を自然と受け入れ、その変化に適応していこうとしています。これでは、地球温暖化はますます加速していき、持続可能な社会の実現は遠のいていくと思います。 一方で、地球温暖化を解決するための科学技術についても考えられていますが、私にはあまりいいとは思えません。〝科学技術によって生み出された問題を科学技術の力で解決する〟一見いいことのように思えますが、これでは、解決するために用いた科学技術によって、また新たな問題が引き起こされてしまうという、負のスパイラルに陥ってしまうと思うからです。 だからこそ、私は〝一人一人の意識の変化〟が必要だと思います。ただ周囲に合わせるのではなく、一人一人が個々の視点で「変化」を覗いた時、今まで気付けなかった問題点や、科学技術に頼らない解決策が見つかるかもしれないからです。何よりも、一人一人がしっかりと「変化」に対して向き合わなければ、いい変化ばかりに目を向けてしまい、〝悪い変化〟に気付けないかもしれません。また、もし〝悪い変化〟の存在に気付けたとしても、それがどれだけの影響を持っていて、どれだけ私達に迫ってきているかは分からないのではないでしょうか。固定された人々の意見だけでなく、真剣に「変化」に向き合うことによって、共通の危機感を持った私達が、多種多様で新しい視点からの意見を持ち寄ることで、初めて世界を動かす力を持つのではないでしょうか。 そして、私が最も注意すべきだと考えているのは、「変化」の連鎖性です。先程の地球温暖化の例で見てみると、地球温暖化が進み、気温が上がることによって、氷などが溶け、海水面が上昇し、そうした「変化」に適応出来なくなった野生生物は、絶滅の危機に追いやられています。それによって人間は、水不足や食糧不足などの問題に頭を悩まされることになります。ここで言いたいことは、私達が起こす「変化」は人間だけの問題にとどまらず、動物達は、いやおうなしに、その「変化」の中で生きることを強要されてしまっているということです。そして、その変化に対応することが出来なかった野生生物達は死を余儀なくされてしまいます。これは、見方によっては、〝人間が野生生物達の命を奪っている〟と言うことも出来るのではないでしょうか。 そして、そのことが最終的には人間に返ってくるということも懸念すべき所だと思っています。私達は、生き物達の命を頂いて生きているため、生き物達が絶滅の道を辿り始めたなら、たちまち食物連鎖が崩れ、将来、今まであたり前にいた生き物達が姿を消し始めた時、後悔するかもしれません。だからこそ、私達には、将来を考え、遠い先を見通す目が必要だと思っています。私達が目先のことにとらわれることなく、長い目で「変化」を捉えられるようになれば、自然や動物達を守ることができ、ゆくゆくは、それが私達、人間の未来を守っていくことにつながる、言い換えれば、地球を守っていくことにつながると私は思っています。もう元の地球を取り戻すことは叶わないかもしれません。それでも、地球が地球としての役割を失わないためにも、一人一人が今を見直さなければならないのではないでしょうか。 最後になりますが、地球を守っていくのも、破壊するのも人間です。だからこそ、周りの判断に任せがちになってしまうかもしれません。しかし、そこで、私達の一人一人が広い視野を持って〝変化〟と向き合い、自分の考えを持つことが、本当の意味で、人間が地球に向き合うことが出来たということではないでしょうか。今求められていることは、悪い方向に変化し続ける地球に適応していく力ではなく、地球の未来のために、私達の意識を変化させていくことだと私は思います。
佳作 「今を生きるために」 佐屋高校1年 横井 麻衣
「女だから。」「男だから。」 こういった言葉に苦しめられている人が世界には大勢いる。 私の身近にはそんな人はいない、と思うかもしれないが、世の中には男女差別というものが今も根強く残っている。生まれた時から性別が決められ、それに従って生きていかないと冷たい目で見られる。それがどんなに苦しくて辛いものなのか、私には想像もつかない。 昔の日本は、男性が絶対的な存在で、物事の決定や命令は男性が行っていた。女性が何かを言っても聞き入れてもらえることは少なく、女性は男性が引っ張っていく後ろをついていくほかなかった。しかし今はどうだろうか。いまだに男性の意見が強い家庭もあるが、ほとんどの家庭は夫婦で互いに協力しあい、支え合って生活している。 そもそも男性が優れているとされていたのは、力が強く体力もあるため、働くことに適性があるとされていたからである。そして古くから続く習慣やしきたりなどによって、女性は働くことから遠ざけられてきた。しかし、日本が太平洋戦争に敗北し、日本の伝統的な家父長制度が崩落したことをきっかけに、女性が社会に進出するようになった。女性ならではの考え方や、女性にしかない意見が注目されるようになり、女性の国会議員も誕生することになった。そうして次第に、世の中の「男性は絶対的な存在である」という考えから「男性も女性も互いに尊重すべき存在である」という考えに変化していったのである。 そして今度は、「女性らしく男性らしく生きる」という考えから「自分らしく生きる」ことを重視する時代に変化しつつある。 今となっては普通の光景も、少し前まではありえないものだった、というのはよくあることだ。手のひらサイズの小さな機械を手に人々が歩きまわる光景であったり、小さなカードで買い物の支払いができる光景であったりである。そして男性が女性の服を着たり、女性が男性の服を着たりする光景もその一つだろう。今は、「あなたは女の子だからスカートを履きなさい」と言われることも、「男性がレディース用の服を着るなんてとんでもない」と言われることはない。男女の垣根を取り払ったジェンダーレスファッションが数年前から若者の支持を受け、流行している。 そして性同一性障害や同性愛などのセクシュアル・マイノリティに対する理解も深まりつつある。以前は「おかしい」「きもちわるい」と反対されていたこれらの性も、近年では少しずつ認知され、理解者やそれを受け入れることに抵抗がない人が増えてきた。 そのように人々の理解が進んだ背景には、勇気を出した人たちがいるのである。それまでは必死に隠していたような人々が、もっと自分を知ってほしい、もっと自分たちのことを知ってほしいと自分のことについて勇気を出して打ち明けたのである。彼らはSNSやユーチューブなどの動画配信サイトを利用して、世界中の多くの人々に向けて様々な情報を発信したのである。こうしてだんだんとセクシュアル・マイノリティについての認知度が高まっていき、真剣に議論されることとなったのである。 今、私たちは「自分らしく生きること」を大切にして生きている。だが、昔はこのような考えは受け入れられなかったものである。しかしながら、多くの人々の努力によって人々の考えが変わり、時代が変わり、そして少しずつではあるが「自分らしさ」が認められるようになった。 見た目も、性別だけではなく、その人にはその人の考え方や人生がある。だから自分と異なる考えの人と出会ったとしても、否定ばかりするのではなく、理解しようと努めたり、相手に寄り添って考えたり、時には距離をおいて見守ったりすることが必要なのである。ジェンダーのことだけではなく、世の中には自分のことでなかなか他者の理解を得ることができなくて苦しい思いをしている人が多くいるはずである。そのような人に私たちができることは、そばに寄り添い、その人の話に耳を傾けることである。 自分らしさを貫いて強く生きるためには、旧来の考え方にしばられる必要はない。私たちが生きているのは「昔」ではなく、「今」である。そして「これから」である。これから私たちは今までは隠されていて見えなかった様々な価値観に出会うことになるだろう。初めて出会う価値観に直面するたびに、私たちが気をつけなくてはならないことは、「伝統的にこのように決まっているから」「昔からこれが普通だから」と型にはめて決めつけないことである。 私たちは今、新しいものごとに対して柔軟に受け入れる時代に生きている。知らないことは知ろうと努力しよう。わからないことはわかるように努力しよう。そんな価値観をもって生きることが、今の時代を生きる私たちに必要なのである。
奨励賞 「変化」 稲沢東高校1年 大島 翔樹
私は勉強が苦手で、宿題を出されても提出しないような、かなり怠惰な人間でした。しかし、高校に入ってからあまりそうではなくなりました。 稲沢東高校では勉強が理解できて少しずつ確実に次のステージへと行けます。私は理解できるようになって初めて、勉強が楽しいと思いました。それと同時に宿題も提出するようになりました。 中学までは、いきなり自分が乗り越えられないような壁を乗り越えることを求められました。また、その壁を乗り越えられずに時間が経つと、またそれよりも高い壁を乗り越えることを求められます。当然そこでは、自分が乗り越えられないような壁を乗り越えることはできません。「自分が乗り越えられないような壁を求められる」というのは、要は「大きな変化を求められる」ということです。少しずつ自分が乗り越えられる壁を乗り越えていくのが重要だと思います。 一方で、宿題を提出できるようになったという「小さな変化」が、私にとっては大きな成果に繋がりました。今思えば中学時代の自分が、怠惰な人間で、愚かだったことがよく分かります。夏休みや、冬休みの宿題を最終日までやらずに溜めていました。結局できなかったものは、無かったことになるまで、そのまま提出しませんでした。だから、宿題からでた問題は全く解けず、テストではいつも酷い点数をとっていました。 しかし、高校に入ってから、宿題をやって提出ができるようになり、良い点数をとれるようになりました。なぜなら、宿題をやっていれば、宿題の問題を見直すことができるからです。それにより、テストで宿題から出題された問題は、簡単に解けることができます。宿題にしっかり取り組むことで勉強ができ、応用問題も解くことができます。宿題を提出できるということが、私にとっての大きな成果に繋がったのです。 ところで今、世界では、新型コロナウイルスが猛威を振るっています。2020年3月13日、新型コロナウイルスが蔓延したことで我が国に緊急事態宣言が発令されました。それにより、我々の生活は大きく変化しました。 緊急事態宣言で、我々は外出自粛をせざるを得なくなりました。最初はみんなこの新型コロナウイルスを終息させようと、外出自粛をより効果的なものにするために、外出自粛を楽しもうという風潮さえ見られました。たとえば、SNSで歌手の星野源さんが手掛けた「うちで踊ろう」という曲が流行しました。この曲を自分で歌ったり、踊ったり、楽器を弾いたりして、動画をSNSに投稿すると、また別の人が同じように動画を投稿します。それを繰り返す「うちで踊ろうリレー」が始まりました。 結局、5月25日に全国の緊急事態宣言は解除されました。新規感染者も少なく、このまま終息すると思われていましたが、一転して爆発的に感染者数が増加し、今でも新型コロナウイルスの脅威は続いています。 私は最初の新型コロナウイルスの対応の仕方と今の対応とでは、全然違うように感じます。以前は、皆一丸となって外出自粛をしていました。しかし、今は前ほど外出自粛をしているイメージがありませんし、外出自粛を工夫して楽しく過ごす風潮もありません。つまり、コロナ前の状態に戻ってきていると感じるのです。ワクチンができ、接種が進んだことや、ウイルスについて詳しい情報がわかったこともあるでしょう。しかし私は、おそらく変化が大きすぎて、人々がそれに順応できなかったからだと考えています。 しかし、この「大きな変化」に順応できなかった我々は、「小さな変化」をもたらし、大きな成果に繋げることができました。たとえば、緊急事態宣言によって、たくさんの学校が休校になりました。しかし、休校中に学生たちが授業を受けられるように、誰にも接触しなくてもできるリモート授業というものが実施されました。リモート授業とは、教師がカメラの前で授業を行い、その映像をインターネットに接続されたスマートフォンやパソコンに送ります。その映像を見て、学生たちが授業を受けられるというものです。リモート授業はコロナ前だと、あと何年後かにようやく普及すると言われていました。しかし、緊急事態宣言によって、外出自粛を要求されたことによって、言われていたより早くリモート授業が普及しました。リモート授業と同じように、テレワークというものも普及しました。我々はコロナ前だと、学校や職場まで直接行かなければなりませんでした。しかし、このリモート授業やテレワークという「小さな変化」で、直接行くという手間がなくなりました。この手間がなくなったことは、我々にとってきっと大きな成果です。 「大きな変化」に順応するということは、中々難しいことです。しかし、「大きな変化」に順応できなくとも、順応しようとして、その間に起こした「小さな変化」は、必ず大きな成果に繋がると思います。もちろん、「大きな変化」は、大きな成果を残すチャンスです。しかし、「大きな変化」は中々起きることはありません。だから、私は「小さな変化」を見逃さず、必ず大きな成果に繋げようと思います。